あなたとの対話(Q&A)

慈悲の冥想のコツ/慈悲の冥想とヴィパッサナーの関係

パティパダー2015年11月号(217)

慈悲の冥想をしているとき、「私の親しい人々~」というところで、身近な人の顔などイメージが浮び、そのイメージから連想してしまい上手くできていないように思います。慈悲の冥想をするときのコツがあれば教えてください。

感情を理性・理解に変える

 慈悲の冥想の場合、最初はいろんな人の顔などイメージが浮かんだりする可能性はあります。冥想というものは、人を成長させるものです。ですから、そこから成長していかなくてはいけません。最初はイメージなどが思い浮ぶことは構わない、しかし、あまり派手に「あの人はこうだ」「この人はああだ」と具体的に人間を思い浮かべてしまうと、問題はそれで感情(貪瞋痴)が湧いてくるということです。感情が湧いてくると、あまり良くありません。
 
 ですから、その点に気をつけて、更に慈悲の冥想をしなくてはいけません。いろんな人が頭に浮かび上がっても、「みんな幸せでいてください」と終わらなくてはいけません。「どうしても、この人が幸せであってほしい」という感じもないのです。感情を理性・理解に変えるのです。
 
 例えば、母親が幸せでいてほしいということは、感情でなくても当たり前の要求でしょう。親しい人々もみんな幸せでいればいい、それは当然のことだと感情ではなく理性で思う。それから早くも「生きとし生けるものが幸せでありますように」というところに進まなくてはいけないのです。
 
 本当に慈悲の冥想になるのは、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という部分を念じるときなのです。しかし、人間の脳に把握できる範囲があまり大きくはないので、自分にとって「生きとし生けるもの」が誰なのかというと、親しい人々だけではなく、他にもたくさんいるんですね。できる範囲でみんなまとめて幸せに生きるべきだと理性で思うのです。

「生きとし生けるもの」の範囲を大きくする

 それから、その範囲・枠を大きくしていかなくてはいけません。人間といっても地球上の人間みんなが幸せになった方がいいでしょう。それが当たり前という感じで気持ちを作るのです。その気持ちには貪瞋痴の感情がありません。地球上の人間すべてが、みんな平和で、豊かで楽しく生きていたらと思うことに、別に感情はないでしょう。あるのは理性だけです。
 
 そこで、「そんなこと思っても、世の中はめちゃくちゃで……」と考えてしまうと、妄想になって怒りを作ったことになるのです。ですから、現実はそうではないかもしれませんが、一番理性的な状況は、すべての人間が平和でいること、人間の偏見や人種差別がなくなって、お互いが家族や兄妹・仲間のような感じで生きているなら、なんと幸せでしょうか。そういうふうに慈悲の気持ちを育てていくのです。
 
 それから、人間だけ幸せであればいいというのは、ちょっと狭いですね。わがままです。人間というのは、生命の中での一種類です。生命といえば、ものすごくたくさんいます。ですから、すべての生命が幸せで、豊かで、気持ち良く、明るく生きていてほしいというふうに、その慈悲の気持ちを育てていくのです。
 
 そのために慈悲の冥想では、「私の前の方向に無限に、住む生命が幸せでありますように」それから、「私の後ろの方向に無限に、住む生命が幸せでありますように」「私の右の方向に~」「私の左の方向に~」「私の下の方向に~」「私の上の方向に~」という順番で、実践してみるのです。無限というのは認識できない単語ですが、自分の認知能力がある範囲という意味です。そうやって、地球という次元をも超えて、慈悲の気持ちを拡げていくのです。
 
 そのように、すべての生命が幸せでありますように、という気持ちを理性で作っていくのです。

慈悲の冥想を「智慧」に繋げる

 慈悲の冥想から次に、智慧に繋げていかなくてはいけません。なぜ生命が「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じるのかというと、いかなる生命も幸福を目指して生きているからです。幸福になりたいということは、微生物の気持ちにもあります。ですから、生命が幸福を目指すことというのは、ごく普通、当たり前のことです。それは呼吸することと同じです。人間が生きるために呼吸をする。当たり前でしょう? そのように生命が幸せでありますようにという気持ちも、当たり前の気持ちであると理解するのです。
 
 では、なぜ互いに差別したりするのか。それは自我の錯覚があるから、「私だけ」という気持ちがあるから、だから差別・怒り・嫉妬・憎しみが生まれてくる。みんな「私だけ幸せであればいい」と思っているのです。それで戦い・争い・殺し合い・非難・侮辱など、すべての悪が現れるのです。
 
 ですから、それはおかしい。すべての生命がことごとく幸福になりたいと思っている。私は生命のこの基本的な権利を認めます、というふうに智慧に繋げていかなくてはいけません。それでその人が、「なるほど、慈悲を邪魔するのは『私』という自我の錯覚が問題なのだ」と気づくのです。「私の~」と言ったとたん自我の錯覚なのです
 
 ですから、自分に本物の慈悲が現れないのは、「私」という自我の錯覚があるからだと理解する。その自我の錯覚を消してしまえばいい。自我という錯覚さえなければ自動的に、自然に慈しみの気持ちになります。
 
 慈悲の冥想を、そこまで進める。そうすると解脱に達するところまでくるのです。慈悲の冥想は、それだけででも、言ったような順番で成長するのです。

慈悲の冥想が成長する順番

 成長の順番としては、まず感情が現れるのは仕方ありません。それから、感情をじわじわと減らして、理性に、当たり前の気持ちに持っていく。それから、すべての生命に慈しみの気持ちを拡げるようにする。次に、すべての生命ということを、自分の認知能力のギリギリまで拡げていく。

 能力というのは、生命を認知・認識できる能力のことです。例えば、宇宙は無限といっても私たちにはわからないでしょう。実感としてありません。しかし、各個人が持っている心の力によって、どんどん拡げていくのです。

 それから次のステップです。智慧のところです。すべての生命は幸福を目指して生きているのですから、慈悲の気持ちはあるべき気持ちであって、他の気持ちは正しくないと理解する。生きる場合は、すべての生命と一緒に生きているのです。では、他の生命に対してどんなアプローチを取るのですか? それは、唯一「慈しみ」です。あの生命は可愛い、あの生命は可愛くない、そんなものは成り立たないのです。そのような理解にたどりついたら、智慧が現れているのです。

 次のステップは、なぜこんなに苦労して慈悲の気持ちを育てなくてはいけないのか?というところです。なぜ、コロッと慈悲の気持ちを忘れてしまうのでしょうか。それは、自分の心の問題なのです。他の生命に問題があるわけではないのです。自分が、自我という錯覚で生きているからなのです。それを何とかしなくてはいけません。

 そういうところまで進めば、慈悲の冥想で自我の錯覚が完全に消える可能性があります。消えない場合もありますけど。『慈経』でお釈迦さまがおっしゃられているように、不還果までは悟ることができます。

預流果から不還果まで

 まず「自我の錯覚」が消えたら預流果です。自我の錯覚が消えても、自分の心にある欲と怒りが、他の生命にとって迷惑だと気づく。自分が欲を働かせてしまうと、誰か他の生命に迷惑をかけることになる。それは慈悲ではありません。自分が怒りを起こしてしまうと、誰か他の生命に迷惑をかけている。そこで欲と怒りが問題だと、本人が慈悲の冥想をしながら欲と怒りが起こらないように気をつける。それで、欲と怒りが減ったら一来果で、欲と怒りが無くなったら不還果になるのです。そのようになれば慈悲はしっかりと確立します。悟りの段階では、あと一段階残っていますが、不還果になったら、次の生まれで阿羅漢果になります。それが慈悲の冥想のすべてです。
 
 個人が自分のわかる範囲で頑張って、この順番で成長していかなくてはいけません。例えば、「私の嫌いな人々も幸せでありますように」と言ったら怒りが湧いてくるでしょう。時々、若者が言うのです。「嫌いな人~」と唱えても、どうも正直になれないと。それでいいのです。本人はそこで何か自分の心の弱みに気づいているのです。同時に、感情が湧いてきてインチキでやるのは良くないとも知っているのです。ですから、「嫌いな人~」「嫌っている人~」も幸せでありますようにと、素直に念じられるところまで頑張るのです。
 
 そういうことで、皆さん出来る範囲で始めて、どんどん慈悲の気持ちを拡げてみてください。


慈悲の冥想とヴィパッサナー冥想の関係について教えてください。両方毎日やった方がいいのでしょうか?

完全に正しい生き方と、生きることを乗り越える道

 慈悲の冥想だけでも解脱の方向にいきます。その説明はしました。ヴィパッサナー冥想は、いきなり解脱を目指して実践するのです。なぜなら、慈悲の冥想をしたら確実に解脱に達するという保証がないからです。「確実」という保証はない。慈悲は、生命がなすべき究極の善い生き方です。ですから、善い生き方であって解脱ではないのです。慈悲は、究極に善い、完全に正しい生き方です。
 
 完全に正しい生き方で、生きることを乗り越えられる人もいるし、乗り越えられない人もいます。しかし、輪廻転生する生命にとって、唯一の目的は苦しみの流れをなくすことなのです。だったら、さっさとヴィパッサナー冥想をして解脱に達するべきです。苦しみの輪廻を脱出しなさい、ということになるのです。ですから、ヴィパッサナー冥想は解脱を目指している冥想なのです。
 
 解脱というのは、二度と現れないように煩悩を滅尽することです。根絶という言葉も使います。根元から絶つということです。それで終わりです。輪廻転生に戻らないのです。

ヴィパッサナーをする人はエゴイスト?

 ヴィパッサナー冥想をしているのは、自分のことだけを考えている人ではありません。お釈迦さまは、ヴィパッサナー冥想をしている人々は、人類に幸福を与えている。人類の先輩である。模範になる人間であるとおしゃっています。実践する人には、「オレは偉い」という自我はないからです。

 ですから、人を助けたければ自我の錯覚をなくすだけです。ヴィパッサナー冥想をする人は、敢えて慈悲の実践をしなくても、自我の錯覚をなくそうとするのですから慈悲も同時に生まれてくるのです。自分の怒り・嫉妬・憎しみを観てチェックしているのですから、生命に対して怒り・嫉妬・憎しみの反応はしないのです。

ヴィパッサナーの前には慈悲の冥想を

 ヴィパッサナー冥想は、結構難しいのです。慈悲の冥想も前の説明のように、正しくやろうとすればなかなか大変です。そこで私は、皆さんは忙しいし、仕事もしなくてはいけないので、ですからある程度で結果が出るように、慈悲の冥想のショートバージョンを教えています。慈悲の冥想もして、いくらか心を落ち着けてからヴィパッサナー冥想をした方がいいと教えているのです。

 ヴィパッサナー冥想をする前に、慈悲の冥想もしてください。なぜなら、冥想をしていると、脳の中でいろいろな錯覚が起こったりするのです。脳を開発して新しい神経回路がいっぱいできるので、結構錯覚が起きます。

 それから、他の生命の心の影響も受けてしまう可能性もあります。今も皆さんは他の生命の心の影響を受けていますよ。皆さんがいま明るい気分でいたとしても、目の前の人の気分が悪くなると、自分の気分も変わってしまいます。そのように、私たちはずっと周りの人たちの心の影響を受けて生きているのです。例えば、犬や猫など動物を見ると楽しくなったりするでしょう。なぜでしょう? 理由は犬や猫はいつでも楽しくいるからです。ですから、犬を飼っている人は犬の心の影響も受けているのです。

 ということで、私たちには慈悲の心があった方がいいのです。自分が慈悲の気持ちを作ると、周りは仕方がなくその影響を受けます。

脳の錯覚が消え、他の生命の悪影響も避けられる

 ヴィパッサナー冥想というのは、ありのままに物事を観察する世界です。その場合、人の心の影響を受けてしまうと、ありのままの観察ができなくなってしまいます。邪魔になるのです。人の気持ちに沿って、物事を観察してしまうという落とし穴に陥ります。
 
 そもそも、人間の中でも仏教を好きな人というのは、ほんの僅かです。仏教を嫌いな人は、その他大勢なのです。みんな貪瞋痴が好きです。無知・無明が好きなのです、それで生きているのですから。妄想が大好きです。迷信も大好きです。それで生きていられます。現実は決して見たくないのです。というような世界ですから、その世界から影響を受けてしまうとヴィパッサナー冥想は上手くいかないのです。科学的な完璧な観察にはならないのです。
 
 ですから、先に慈悲の冥想をするのです。そうすると悪影響を一切受けないようになります。脳の錯覚が、かなり無くなります。そうすると、邪魔がなく正しく冥想を続けることができるのです。たとえ他の生命の影響を受けたとしても、それは慈しみの影響だけです。そうすると更に冥想ができます。
 
 慈悲があると、人の影響を受けたとしても、修行を支える影響になるのです。そういうことがありまして、慈悲の冥想をしてヴィパッサナー冥想に入った方がやりやすいと思います。

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