興奮状態はよくないか
仏教の話を聞いて、冷静でいるってステキなことだな、と思っているのですが、仕事の中で、自分の好きな分野のものに取り組むときには、ある意味でとても『興奮状態』になってしまいます。でも、その興奮状態は仕事をとてもはかどらせてくれます。
何かやりたいことがあるとき、やることに大きな楽しみがあるとき、刺激を感じるときは、かなり興奮するものです。興奮してやる気が出て、いろいろなことを元気にこなしてしまうのです。
興奮といっても2種類あって、興奮しすぎて何もできなくなってしまう、それでなすべきことができない、そういう興奮もあります。もうひとつは、なんだかやる気がどんどん出てきて、楽しくてしょうがないという感じで「やるぞ~」という気分で何かをやれるような興奮。ものごとを元気でやる興奮、このようなエネルギーというのは、どなたも味わったことがあると思います。おもしろいことをやっていると、つい時間を忘れてしまって、いつまでも続けてやってしまうという経験。子供たちでも経験していることです。
いずれにせよ、興奮というのは、貪瞋痴から生まれてくるんですね。貪りか、怒りか、無知か、そのいずれかなんですね。貪りというのは、いわゆる「好きだからやる」という気持ちですね。あるいは怒り。何かいやなものがある場合、たとえば、部屋の中がゴミでいっぱいに散らかっていて、これはいやだと。とにかく早く掃除しなくちゃ、と必死になって掃除をやるといったこと、ありますね。それから無知。なにもわからないからとにかくやってみるということもありますね。
そういう興奮というのは、やはりからだには良くないのです。こころにも良くないのです。からだの状態もこころの状態も、かなり疲れるのです。ストレスがたまって壊れていきます。ですから、ずっとそのような興奮状態でいる人は、どこか落ち着きがなくて、こころは混乱状態にいるのです。
しかし、私の場合でいうと、そのような興奮状態にならなければ、仕事もあまりはかどらない気がするのですけれど。
ここでお話ししたいのは、興奮とはまったく違う次元の、180度違う方向の「やる気」なのです。それは、不貪、不瞋、不痴の働きです。不貪、不瞋、不痴の明るさ、元気があれば、人のこころにもからだにもとってもいいのです。普通の興奮に基づいて行動すると、からだのなかに生まれてくるエネルギーというのは、からだを壊していく毒みたいなものなんですね。その反対の方向にエネルギーをつくると、からだを養っていくというか、からだとこころ、両方をよりよくしていくのです。
もう少し具体的に教えてください。
落ち着いていて、さらにやる気がある。その両方をつなげることができると、正しいエネルギーになるのです。
やる気があるのだけれど、あまりにもやりたいがために落ち着きがない。やる気が出てくると同時に、落ち着きがなくなってしまうということが、よくあると思います。それは、悪い方向の興奮なのですね。正しい方向というのは、やはり大変落ち着いています。落ち着いているのだけれど、エネルギーもとても大きいのです。混乱はしない。何かをやり終えたからといって、ああよかった! などと舞い上がったり、途轍もなく感動するということもない。なんということもなく、クールでいる。いろいろなことをさっさとこなしていますが、落ち着いているのでほとんど失敗がなく、ほかの人よりとても早い。早いというのは、焦ってやるということではないのです。世の中一般の人は、仕事が遅いのです。なぜ遅いかというと、ひとつのことをやるのに、小さな失敗をかなり繰り返しているのです。ですから、失敗に要する時間を計算してみると、かなりの無駄があるのです。そんなわけですから、一回で終わるのであれば、ゆっくりやっている人の方が早いのです。
ウサギとカメの話のように、ウサギさんとカメさんが競争したら、カメさんが勝つんですね。この子供の童話でも、やはり真実を言っているのです。落ち着いた人は勝ちますと。何でも早くやりたいウサギさん、落ち着きがないウサギさんは、カメさんに負けます。ゆっくりしっかり落ち着いて歩めば、勝つのだということです。
落ち着いていて、しかもエネルギーがあるというのは、どのような状態なのでしょうか。
因果法則によって、きちんとものごとがわかっている、という状態です。ものごとをきちんと見て、理解して行動する人は、ひとつひとつ丁寧に終わらせていきますから、うまくいっても、ちっとも驚くことはありません。うまくいった、よかった、よかった、と感動するというのは、やはり混乱なのですね。びっくりする、感動するというのは、やはり、ただ興奮状態でいい加減にやった、ただやりたいから焦ってやった、ということでしょう。だから、どんな結果になるかもわからない。いろいろなところで失敗もする。そしてまた起きあがって、うまくいったところでびっくりするんですね。それで飛び上がって感動する。そこには、無知が働いていますね。
無知の興奮状態にならない、良い方法というのはありますか。
ヴィパッサナーは、その道を教えようとしています。ちょっと具体的に瞑想のお話をしてみましょう。
瞑想をはじめたら、どんどんこころのエネルギーがなくなっていくのを感じる、という人がいます。なくなっていくはずはありませんよ。しかし、ちょっとでもこころが鈍っていく、つまり沈んでいくと、次に出てくるのは、妄想と眠気です。妄想や眠気が出てくる前に、すぐ、こころを活性化させてください。どうするのかというと、ただ、やることをしっかりやる、ただ、ゆっくりと確認し続けることだけなのです。それを続けていると、こころが落ち着いているということがどういうことかわかると思います。落ち着いていて、なおかつ、大きなエネルギーがある。そして、それによって、いらいらすることもありません。
普通の人にエネルギーがあると、どうしても落ち着きがなくなってしまいます。やりたくてやりたくてたまらない。そして、そのエネルギーを発散すると、今度はストレスがいっぱい溜まって終わっちゃうんですね。
私が今話したエネルギーというのは、消えないのです。ですから、力が生まれてくるように、気をつけて瞑想していただきたいのです。一人でやるとき、エネルギーがなくなる感じや、やる気が消えてくるということは、どうしても起こります。それは、こころが慣れていないからです。貪瞋痴にはこころは慣れていますが、不貪、不瞋、不痴には慣れていないのです。慣れていないから、すぐつまらなくなってくる。つまらなくなってくると、沈んでしまう。はやく、その「つまらない」という感覚を消さなければなりません。
どうすれば消えるのですか。
方法はとにかく、単純なのです。ただ、その瞬間瞬間に、こころやからだの動きを確認していく。「つまらない」という感覚も確認します。とにかく、これも確認するんだ、これも確認するんだ、という感じで、確認していきます。余計なことを考えたりする暇がない、とても忙しいんだ、という感じです。とても忙しいのですが、やる仕事はとても単純ですから、やれるはずなのです。そして、忙しく確認する。こころが怠けないようにするのです。
瞑想の世界では、ピーティ(pīti )という言葉を使っていて、瞑想すると大きな喜びが生まれてくるといいます。喜びというのは、興奮ではないのです。
私たちがふだん知っている喜びとはすごく違うんですね。普通は、何かおもしろいものを見たら、おかしくておかしくて笑っちゃうとか、自分の好きなものを見たらうれしくなって元気が出るとか、そういう喜びですが、それとはかなり違うのです。
瞑想の世界から喜び(喜悦感/sukha )が生まれると、からだにもこころにも重要なエネルギーが補給されますから、それによってからだの調子も良くなりますし、こころの状態もよくなってきます。
では瞑想して落ち着いた人というのは、落ち着き払って何もしないかというと、まったく逆なのです。その人には、誰よりもエネルギーがありますから、とても活発に行動できるのです。なぜならば、悩みがないのですから。