No.243(2015年5月)
Tathāgata ── 如来
真理を観るものは如来を観る The truth represents the Buddha.
ウェーサーカ祭の意義
五月はウェーサーカ月と言います。お釈迦様の誕生と成道と般涅槃という三大聖事がウェーサーカ月の満月に起きたのだと言われています。俗世間の立場で言えば、お釈迦様の誕生日なのです。成道とは、覚りをひらくことです。宇宙にいる無数の生命の中で、お釈迦様一人に覚りをひらくことができたのです。世に最高の聖者・天人の師が現れたのです。ですから成道も聖者としての誕生になります。般涅槃とは、一般的に言えば亡くなることです。覚りに達した聖者たちは、死後、輪廻転生しないので、死ではなく般涅槃と言うのです。覚っても肉体を持っている間は、この世と関わりを持たなくてはいけないのです。肉体を捨てた時点で、究極のやすらぎである涅槃という境地です。般涅槃は、私たちにとっては、お釈迦様が亡くなられた悲しい日です。しかしお釈迦様にとっては、究極のやすらぎの境地になって、存在との関わりを一切断つことになります。ですから、お釈迦様の立場から見れば、最高の誕生かもしれません。お釈迦様に関わるこの三大聖事をウェーサーカ月の満月の日にお祝いします。お祝いと言っても、俗世間的に汚れた祭りをするのではなく、釈尊に敬意を表するために、様々なイベントを行ないます。ほとんどの人々は、二日間、修行に入るのです。要するにお祝いとして法要を行なうことになります。お釈迦様をお祝いすることで、人びとは無量の功徳を積むのです。俗世間的な誕生会を行なうと心が汚れて悪になりますが、釈尊の誕生を祝うことで心が清らかになり、ブッダの説かれた教えと修行に興味をいだき、悪から心が離れるのです。釈尊祝祭日は、仏教に興味ある皆がお祝いすべき日なのです。
ブッダは如来と言います
仏教徒はお釈迦様のことを派手に祀りたいと思っているのです。金を惜しむことなく、様々な供物をさしあげるのです。しかしお釈迦様は、このような行為を否定してはいないが、好んでもいなかったのです。高価な花などで私を尊敬する人より、私の教えを実践する人のほうが私を真に尊敬しているのだ、と説かれたのです。お釈迦様が説法の中で自分を指す場合は、「自分」と言わないのです。そのとき使うのは、「如来 tathāgata」という第三人称の名詞なのです。決して避けられない場合以外は、第一人称を使ったことはないのです。お釈迦様に最高の礼拝を行なう目的で、今月は如来という単語の意味を勉強してみましょう。
省略して、増支部経典四集の23 Lokasuttaṃ を紹介します。
Loka とは、世・世間という意味です。釈尊はこのように語ります。
如来は世間を覚られた。如来は世間から離れた。世はどのように現れるのかと覚られた。如来はその原因を断たれた。如来は世の滅を覚られた。如来は世の滅に達しました。如来は世の滅に至る道を覚られた。如来は世の滅に至る道を完成しました。
これは直訳なので、理解しにくいかもしれません。世・世間とは、一切の生命のことです。言い換えれば、存在・命・生命などの言葉になります。お釈迦様は、命とは何か、存在するとは何か、ということを発見したのです。なぜ生命は限りなく輪廻転生し続けるのかと、その原因も発見したのです。輪廻転生とは「苦の転生」なので、その苦しみの終焉は何なのかと発見したのです。それは解脱・涅槃と言います。解脱に至る道を発見して、実践で完成したのです。四聖諦を説明する場合は、dukkha・苦という言葉を使いますが、この経典では、苦の代わりに loka・世という語を使っているのです。
私たちに理解しやすい意訳をするならば、すべての生命のことを釈尊は知り尽くしているのです。釈尊は生命と一切関わりのない方なのです。釈尊は生命の次元を乗り越えて、解脱に達したのです。生命の中で誰一人として、釈尊に等しいものは存在しません。たとえ神々、魔天、梵天であっても、世の中の存在なのです。釈尊はすべての生命を超越しているのです。先ほど引用した経典では、この意味を如来という第三人称で丁寧に語られているのです。
世間を知っているから如来
経典の次の段落を訳します。
魔天・梵天・神々・人間・沙門・婆羅門を含むすべての生命が見たもの、聴いたもの、感じたもの、心で考えて達したもののすべてを如来は覚られたのです。
これは一般的な言葉に変えれば、「お釈迦様が知らないものは一切なし」ということになります。生命は目・耳・身体で世間を知ろうとするのです。それから、頭で考えて、議論して、論理立てて、知ろうとするのです。生命の認識とはどんな程度のものなのか、それが真理に合っているか否か、どこで間違っているのか、などなどの全てを釈尊は覚っているのです。また言い換えると、釈尊は真理(tatha)を知っているのです。
Tatha とは、ありのままの事実、という意味になります。Tatha を知っているから、釈尊はtathāgata と呼ばれるのです。(sabbaṃ taṃ tathāgatena abhisambuddhaṃ. Tasmā’tathāgato’ ti vuccati.)如来とは、真理に達した人、という意味です。それは、医師・弁護士といった言葉と同じく、資格に与えられる名前なのです。「私は医師です」と言う場合、その人は自我を張っているのではなく、自分の専門職を示しているのです。その人のことを信頼しなくてはいけないことになるのです。釈尊のことを信頼するべきなので、お釈迦様は自分のことを如来という第三人称で示したのです。
真理を語るから如来
経典の次の段落に入りましょう。
如来は無上の正等覚に達したその夜から、般涅槃に入るその夜まで、何かを語るならば、何かを示すならば、何かを提唱するならば、それら全てがその通りになります。変わることは決してないのです。従って、如来と言います。
(……yaṃ etasmim antare bhāsati lapati niddisati sabbaṃ taṃ tatheva hoti, noaññathā. Tasmā ‘tathāgato’ ti vuccati.)
釈尊の語られることは全て、その通りなのです。あとで変わることは一切ないのです。
釈尊が私たちに何かアドバイスしたならば、躾をしたならば、戒めを示したならば、それはその通りになります。人間の勝手で「少々、変えましょう」ということは成り立たないのです。釈尊の全ての言葉は、「地球は丸い」というような言葉なのです。その言葉を訂正したり、改良したりすることは、誰にも不可能です。人間が語るものなら、不完全なので訂正することは可能です。時間が経つと前に言ったことは事実ではなかった、ということにもなります。完全に語れる能力があるのは、正等覚者であるブッダのみです。
後の世の人びとは、ブッダのその偉大なる能力を解っていなかったようです。「釈尊が語られた教えである阿含経典は小乗仏教で、完全な解脱は語られていないのだ。大乗経典は、完全な解脱であるブッダになる道を説かれているのだ」と言うのです。しかし、この大乗仏典という類は、釈尊が涅槃に入られて五百年ほど経ってから作られたものだと、学者が言っているのです。経典のスタイルを真似して作文を書くのは人間の自由です。しかし、そのような作品は正等覚者の言葉ではなく、心が汚れている知識人の思考なのです。
真理を語らないので、この教えを信仰しなさいと強引に言うのです。ブッダの教えでは、信仰は存在しないのです。如来の言葉は変わらないものであると理解したほうが、人類のためになります。皆、互いに喧嘩することなく、幸福に達する道を仲良く歩むことができるのです。如来という言葉の二番目の定義は、説かれたものはその通りで決して変わらない、という意味なのです。
試してみて他人に語るから如来
次の段落に入ります。
Yathāvādī, bhikkhave, tathāgato tathākārī, yathākārī tathāvādī. Iti yathāvādī tathākārī, yathākārī tathāvādī. Tasmā ‘tathāgato’ ti vuccati.
比丘たちよ、如来はどのように語ろうがその如く行なうのです。どのように行おうがその如く語るのです。語る如く行う。行う如く語る。従って、如來と言うのです。
この意味は難しくないのです。お釈迦様は、まず自分で修行して真理を発見したのです。自分がまず解脱に達したのです。それから、人びとにも真理を語ったのです。解脱に達する道を教えたのです。自分では守らないのに、弟子たちに厳しい戒律や修行を課すことはしません。師匠は常に弟子たちの模範でいるべきだと説かれているのです。俗世間の師弟関係はそうではないのです。弟子たちは隠れて師匠の弱点を笑うのです。師匠が持っていない能力を弟子たちが持っているケースもあるのです。釈尊と仏弟子の間では、そのようなことは起こり得ません。弟子たちは、たとえ解脱に達しても、釈尊の能力には敵わないのです。
釈尊の説かれる真理に対しても、修行方法に対しても、疑いを持つ必要はないのです。これでよいのか、大丈夫なのか、と優柔不断になる必要はないのです。釈尊が我々に教えるすべての方法は、釈尊ご自身で試してみたものです。お釈迦様が試した全ては、私たちに語られていないのです。完全なもののみ選んで語られたのです。心がいくらか清らかになる方法などは語りません。完全に清らかになる方法を語るのです。ご自分で実践して、試して、解脱に達して、人々にその真理を語られたから、釈尊に如來と言うのです。
最勝の生命だから如来
次の段落は、南伝大蔵経(第十八巻42頁)で次のように訳されています。
比丘衆よ、天と魔と梵天と世間との沙門・婆羅門と天神と人民との衆に如來は勝ち、勝たれず、遍く見、自在に転ず、故に如來と名づけられる、と。
このフレーズを現代語に訳するのは難しいので、解説だけします。天・魔・梵天などなどとは、一切の生命、という意味です。一切の生命の中で、如來が優れているのです。如來より優れた生命は存在しないのです。知るべきものをすべて知っているのです。如來こそが自在なのです。一神教では、神が自由自在だと言っています。しかし、自由自在の神は存在しないのです。一切を知り尽くしたからこそ、釈尊は自在なのです。従って、釈尊に如来と言うのです。
この経典は、釈尊を讃嘆する七つの偈で終了します。しかし脈絡から推測すると、この偈は釈尊が直々に語られたものと言うより、当時の阿羅漢たちの言葉ではないかと思われますので、今回は省略します。
釈尊と言う場合は、我々の頭に歴史的に実在した一人の人間のことが浮かびます。釈尊は人類に二度と現れない、完全な人格者なのです。しかし、釈尊は「私」という言葉を避けて、真理を語ったのです。その時、如来という第三人称で自分を示したのです。その理由は、私たちは Siddhatta Gotama という個人を思い浮かべて個人崇拝するより、真理を大事にするべきだからです。“Yo dhammaṃ passati so maṃ passati, yo maṃ passatiso dhammaṃ passati.(真理を観るものは私を観る。私を観るものは真理を観る。)と説かれています。私たち一人ひとりが、真理を発見し、解脱を体験しなくてはいけないのです。それが、ブッダを観ることです。
私人公人
脱線して、別な話をします。田中という医師がいるとしましょう。それで私たちは、「これは田中さんに訊きましょう」と言います。その場合は、田中という個人に訊いているのです。その個人が知っている知識か経験を参考にしようとしているのです。次に私たちは、「これは医師に訊きましょう」と言って、同じ田中さんに訊きます。その場合は、田中個人のことを訊いているのではなく、普遍的な専門知識を伺っているのです。他の医師に同じ質問を出されても、同じ答えが来るのです。田中さんと言えば私人です。医師と言えば公人です。お釈迦様の場合も、スタンスは同じです。お釈迦様がご自分のことを如来と示されたのは、人々がある特定の人間を仰ぐのではなく、完全たる真理に達した聖者に出会って欲しかったからです。如来は一切の生命より優れているのだ、如来に等しいものは誰も存在しないのだ、如来こそが自在なのだ、などなど言うと、他宗教が言ってることと同じではないかと思われるかもしれません。他宗教の方々も、うちの神様だけが本物の神様です、他の神を信じるなかれ、と言うのです。しかし、ブッダの言葉は他宗教の言葉と似ていないのです。如来(真理に達した人ーーそれは誰でもよいのです)が最も優れた在なのです。釈尊は一度たりとも、Siddhatta Gotama が最も優れた存在であると説かれていないのです。しかし、釈尊・Siddhatta Gotama・如来は、同じ人物であると皆知っているのです。しかし我々は、如来こそが一切の生命のことを知り尽くして、一切の生命を乗り越えている、最勝の存在であると理解しなくてはいけないのです。
このように、如来とはどういう存在かと明確に理解して、如来の教えに対して確信を抱き、優柔不断さのない心で修行に励むことが、釈尊に対する最も優れた敬意の表明になるのです。この経典を理解することをもって、皆様にもウェーサーカ祭をお祝いしてほしいのです。釈迦牟尼ブッダの祝福がありますように。
今回のポイント
- 真理を知ることが何よりも大事
- 自分が実行しないものを他人に言うべからず
- 真理の言葉には訂正は成り立ちません