No.339(2023年6月号)
生きるとは認識のこと
幸不幸はこころ次第 Your world is your consciousness
今月の巻頭偈
Dhammapada 1.Yamakavaggo
ダンマパダ(法句)第一章 一対の章
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Idha socati pecca socati
Pāpakārī ubhayattha socati
So socati so vihaññati
Disvā kammakiliṭṭhamattano
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悪行の者はこの世で嘆き
あの世で嘆き、両世で嘆く
かれは嘆き、かれは悩む
自己の汚れた業を見て
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Idha modati pecca modati
Katapuñño ubhayattha modati
So modati so pamodati
Disvā kammavisuddhimattano
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善行の者はこの世で喜び
あの世で喜び、両世で喜ぶ
かれは喜び、かれは満ちる
自己の業の清まりを見て
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Idha tappati pecca tappati
Pāpakārī ubhayattha tappati
Pāpaṃ me katanti tappati
Bhiyyo tappati duggatiṃ gato
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悪行の者はこの世で苦しみ
あの世で苦しみ、両世で苦しむ
「私は悪をなした」と苦しむ
悪道に行き、さらに苦しむ
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Idha nandati pecca nandati
Katapuñño ubhayattha nandati
Puññaṃ me katanti nandati
Bhiyyo nandati suggatiṃ gato
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善行の者はこの世で歓び
あの世で歓び、両世で歓ぶ
「私は善をなした」と歓ぶ
善道に行き、さらに歓ぶ
創造者
「こころが一切の現象の創造者であり、一切の現象を支配して管理しているのだ」と、ブッダは説かれました。この言葉を、私たちは各自の能力範囲で理解するのです。テーラワーダという宗派仏教では、「物質は存在する」という立場を取ってきました。ただし、ブッダの真理である「無常」に合わせて、「物質は〈いま、いまの瞬間〉のみ実在する」と説くのです。過去の場合は「あった」、未来の場合は「あるだろう」という立場です。また、説一切有部という宗派仏教では、過去・未来・現在をまとめて「ある」という立場を取っていました。ブッダの言葉である「一切の現象の創造者はこころである」の意味を解説するため、先達の僧侶たちは散々苦労するはめになったのです。テーラワーダ仏教では、「物質は物質として生滅して流れるが、こころも生じるたびに物質を作るのだ」と説明します。これは、「こころが作った地水火風という物質は、外にある地水火風の物質と一緒になって働くのだ」という意味になります。
大乗仏教は、この立場に反対します。空を押し出す中観派では、「物質もこころも実在しない」と説きました。また、阿頼耶識を立てる唯識派では、「世界のすべてはこころの投影に過ぎない」と説いたのです。
いずれの哲学がお釈迦様の教えに合っているのかと、明確に決定することはできません。釈尊はその場その場で、出された質問に合わせて、また人の理解能力に合わせて、真理を教えてあげたのです。お釈迦様には見解は無かったし、人の見解に合わせることもしなかったのです。ただ、相手に理解できるように語っただけです。「こころがすべての支配者・管理者である」という言葉も、我々の能力に合わせて理解しなくてはいけないのです。とりあえず、「あなたが生きている世界は、あなたのこころが創造したものである」という言葉にまとめておきましょう。
神通
初期仏教経典には、神通の話があります。修行者が瞑想実践でこころの次元を高めてサマーディ状態を作る過程や、真理を知って解脱に達する過程を説明する古い経典には、神通の話も出てくるのです。神通は、他宗教で言う「奇跡」とは違います。神通は修行者が育てる超越した能力の一つです。神通の話を読むと、超越した能力を持っている修行者は自由自在に物質現象を作ったり、すでにある物質現象を変えたりしています。そのなかに、自分の身体をコピーして分身を作ること、瞬間移動すること、壁・山など障害となる物質を通り抜けること、天眼、天耳、他心通なども含まれています。これらはすべて、修行者のこころが作るのです。ただし、神通は解脱に達するために必須のものでは決してありません。修行の過程で、能力ある人々が少々の寄り道を歩んでみるようなものです。「神通を作りなさい」という釈尊のアドバイスはないのです。
ここで神通の話をしたのは、「こころにはものの見事に物質を作る・管理する・支配する能力があるのだ」という実例を示すためです。
俗人
物質現象をあやつる神通に関する話を聞くと、「一般の人々のこころは弱すぎるから、物質なんかは作れないだろう」と思われるかも知れません。しかし、テーラワーダのアビダンマでは、こころは生じる瞬間に地水火風を作るのだと解説しています。つまり、我々のこころもつねに物質を作っているのです。「(物質を)管理・支配しているのだ」というところが問題です。私たちの経験は、物質に抑えられているのです。物質世界が自分の命を支配して管理しているのだ、というのが普通の経験です。こころが物質を支配するべきところで、物質がこころを支配しているならば、法則はアベコベになるでしょう。法則をアベコベに感じたり、アベコベに経験したりするのも、こころの問題です。それは、こころの欠陥、こころの病、と言っておきましょう。こころの欠陥とはなんでしょうか? それは渇愛であり、執着なのです。詳しく言うならば、煩悩です。「こころの汚れ」と説かれる場合もあります。汚れたこころを持つ一般人に、神通はそなわりません。とはいえ、どんな生命のこころも物質を作っているのです。創造する物質は、そのこころの能力によって変わります。
有る/無しの問題
物質は有る? 物質は無い? このような思考は、仏教的には「邪思惟」になります。仏教が避ける極論的な立場でもあります。客観的に、または科学的に「物質は有る」とするならば、そのように言う人が「有る」と認識しているのです。認識できない場合は「無い」と言わなくてはいけない。ですから、「有る/無し」とは認識の問題です。Quantum
physics(量子物理学)で説かれる話と似ています。ですから、物は有るか無いかではなく、「こころがどのように認識しているのか?」ということを重視しなくてはいけないのです。汚れたこころの認識能力、集中力あるこころの認識能力、清らかなこころの認識能力、それぞれ違います。
認識は経験でもあります。美味しいと認識する時、美味しさを経験しているのです。寒いと認識したら、寒さを経験しています。認識は経験なので、自分が美味しいと言うものを不味いと認識する人々も、自分には寒い状況をあたたかいと感じる人々もいるのです。すべては認識次第だというquantum
state(量子状態)を知らない人々にとっては、生きるうえでトラブルが絶えないのです。悩み苦しみ、賛嘆、非難、侮辱、争いなどが終わりなく起きます。自分が認識すること、経験することが、そのとおりで事実だと勘違いするから、生命には必然的に悩み苦しみが付いてくるのです。たとえで説明します。自分が「寒い」と認識して、経験するのです。とはいえ、寒いとは普遍的で客観的な真理ではありません。自分だけに限られた、主観的な認識であり、経験です。他の生命が、寒いと感じるのか、温かいと感じるのか、激暑いと感じるのか、何も感じないのか、わかりません。それぞれの生命が何を認識しても、その経験は事実だ、真理だ、と決めることはできません。というわけで、仏教的なquantum
theory(量子論)の世界では、どんな認識にもどんな経験にも執着しない、厭離、離貪の立場になるのです。俗世間の認識は悩み苦しみの世界を作り、ブッダが説かれた真理(仏教的な量子論の世界)を知る人の認識はつねに安穏をもたらすのです。
命の成り立ち
こころが絶えず認識し続けることに、一般的な世界では「生きている」と言うのです。認識機能が無ければ、命ではありません。こころとは、なにか止まって実体としてあるたましい・霊魂のようなものではなく、認識機能なのです。認識という単語で理解すれば、瞬間たりとも止まらないで変化し続けるエネルギーの流れであると分かります。こころが認識するたびに物質を作ります。それによって、生命に身体という物体が現れてきます。十二因縁の教えでは、この順番が語られています。
Viññāṇa paccayā nāmarūpaṃ
認識に縁って名色が生じる、という意味です。要するに、認識が身体を作るのです。身体とは純物質ではなく、認識機能と不可分なので、nāmarūpa(名色)という単語を使います。これは十二因縁説の三番目のリンクです。一番目のリンクは、avijjā
paccayā saṅkhārā(無明に縁って行・ポテンシャルが生じる)です。二番目のリンクは、saṅkhāra paccayā
viññāṇaṃ(行・ポテンシャルに縁って識・認識が生じる)です。この二つのリンクで、こころの欠陥・病を教えています。身体が出来上がったところで、六根を通じて認識をし続けるのです。認識がさらに渇愛・執着に縁って汚れます。それで憂い悩み苦しみの循環が起こるのです。十二因縁説で、命の成り立ちが説かれています。
行為というキーワード
仏典を読む人々が、仏教用語の海に溺れかけてしまって、気づかないポイントがあります。仏教の真理では、「もの」は存在しないのです。(とはいえ、経典を探してもそのような言葉は見つからないだろうと思います。)こころは対象を認識します。その認識はそのこころにとって「ある」現象なのです。たとえば、「花」と認識すれば、その人に花が「ある」のです。その人に、「花は独立して存在しない。それはあなたの認識です」と言われたら、おそらくその人は困るでしょう。経典では、「ものは存在しない」というフレーズは使いません。一般常識の立場にまっこうから反対しないことにしているのです。
認識とは機能です。機能とは行為です。行為は結果をもたらすポテンシャルを持っています。行為に使うパーリ語は、kammaです。
日常の生き方
人には認識可能な場所が六つあります。眼耳鼻舌身意という六ケ所で認識が起きます。色声香味触法という六種類の現象が、その認識を行なう生命に現れます。誰もが、「自分がいる、外の世界がある」と認識し、知っています。認識したとは、経験したことでもあります。「花がある」ということは、「花を経験している」ことでもあるのです。そこで、ある人のこころが派手に汚れているとしましょう。欲・怒り・嫉妬・恨み・無知などの感情が激しいのです。それでも、その人は眼耳鼻舌身意で色声香味触法を認識しています。それから、考えたり、話したり、身体を使って行為をしたりするのです。認識することは行為です。考えること、話すこと、身体を使うことも行為です。その行為はこころがやっているのです。こころが汚れていたので、ポテンシャルも汚れている。汚れたポテンシャルが将来の認識の流れの道を決めるのです。わかりやすく言えば、身口意で悪行為をしたから、悪果を経験することになります。悪行為をしている時でも、ある程度で悪果を感じるのです。悪行為のポテンシャルがその後の人生(来世を含む)を管理する時は、より一層、不幸・苦・悪果を感じるはめになります。たとえを出します。薬だと勘違いして、人が毒を飲むとします。飲む時はまずくて気持ち悪いのです。それでも、無知だから飲みます。飲んでから、結果が出ます。激しい苦しみを感じて、死にかけるのです。もうどうすることもできない。飲んだ時の嫌な気持ちと、飲んでから起こる苦しみは比較にもなりません。
汚れたこころで行為をする人は、行為をする時にも悩むのです。時間が経ってから、その行為が悪果を出すので、一層悩むことになるのです。(ダンマパダ十五偈)
ほとんどの人々の人生は、この流れなのです。世の中で罪を犯す人々もいます。人に怪我をさせたり、殺生したり、邪な行為をしたり、人々を騙したり、不正を働いたりする人々もいます。その人々は、行為をする時にも怯えているのです。人殺しをする人も、極度の怯えを感じながら罪を犯すものです。時間が経過したら、犯した罪のポテンシャルが結果を出します。その時の苦しみやら怯えは、一層強いのです。手の施しようがありません。たとえば、殺人を犯した人が裁判で死刑判決が下る。その判決が確定する。その時から、その人は怯えるのです。死刑を執行される時には、耐えられないほど怯えるでしょう。
罪を犯そうとした時は、それをやめることもできたのです。しかし、犯してしまえば、後の祭りです。悪行為のポテンシャルは、条件が揃ったところで必ず悪果を出すのです。(ダンマパダ十七偈)
無知
無知だから、自分が生きる世界は自分の認識が作った世界なのだ、とわかっていないのです。無知だから、自分が存在する、外の世界もそのまま存在すると思っているのです。自分が作った世界に、愛着・執着を作り、また恨み憎しみを作るのです。行為の結果が瞬間で起こるならば、人は悪行為をしません。たとえば、殺人を犯したら一分以内で自分も死ぬはめになるならば、殺人を遠慮して、やめるでしょう。実際、どんな人でも、自殺願望がない限りは、火を触ったり、火の中に飛び込んだりはしないのです。それは行為の結果がすぐに出るからです。悪行為の結果は、時間が経ってから現れるものです。悪行為のポテンシャルにも、条件が揃わないと結果が出せません。無知な人々は行為と結果の間にあるタイムラグのことを知らないので、調子に乗って心の汚れを放っておくのです。結果が出て、悩み苦しむはめになる時は、もう遅いのです。煩悩がある生命に、生死を回転する輪廻があります。死後も犯した悪行為の結果を受けるはめになります。
理性
理性のある人は、悪感情を戒めます。悪感情に負けないように気をつけるのです。こころが悪感情に抑えられたら、身口意で行為をしないで待ちます。悪感情が善感情に変わったら、進んで行為をします。善感情で行なう認識と行為は、善なのです。善を経験します。善を経験するとは、幸福を感じることです。
こころが汚れてない人は、幸福を感じる楽しい気持ちで行為をします。善行為が善果を出す時は、一層楽しみと幸福を感じます。善行為をおこなうことも楽しいのです。結果を受ける時も楽しいのです。(ダンマパダ十六、十八偈)
一対一ではない
行為と結果は一対一ではないのです。かぼちゃの種一粒を蒔いて、育てたとしましょう。結果として、その人はいくつかのかぼちゃを収穫することができます。若者が精進して、知識や能力を身につけるために五、六年努力したとしましょう。それから、高収入の仕事に就きます。自分がした努力の分より、自分が得る幸福のほうがはるかに高いのです。ですから、行為の結果は一対一ではないのです。悪行為の場合も同じです。人のものを盗んだら、生まれるたびに貧困で生まれる可能性があります。一つの命を奪ったら、自分の命が何回失われるのかとわからないのです。物質が実体としてあるならば、行為の結果はほぼ一対一です。ガソリン一リットルで車が何キロ走ってくれるのかは簡単に計算できます。買い物で一万円出したら、一万円の価値のある品物が手に入ります。それが物理世界です。こころが創造者で、現象を支配し管理する世界の法則は違います。結果は決して、一対一ではないのです。いつでも、行為より結果のほうがはるかに多くなります。仏教的な量子論の世界を理解できれば、幸福に満たされた生き方が現れるのです。
今回のポイント
- 命の支配者はこころです
- 幸か不幸かは認識次第です
- 認識は人の経験であり、生きる世界でもあります
- 無知と感情は認識の欠陥です
- こころを清めることが幸福になる道です



