渇愛~とくに破壊欲に関して①
渇愛とは何でしょうか。
生命には渇愛があります。渇愛があるから、終わりなく生き続けていくのです。死んでもそこで終わらないというのは、仏教の考え方です。
渇愛というのは、文字通りに渇いている状態。欲しがる状態。トゥルシュナーというのはパーリ語、サンスクリット語で、日常の渇く状態にも使っているし、何かをすごく欲しがるときにも、トゥルシュナー、タンハーといいます。それが日本語で「渇愛」となっているんですね。
生命は皆、いつでもこの「欲しがる状態」でいるのです。我々のこころの中ではいつも、この「欲しい」「欲しい」という欲しがるエネルギーがあって、それは消えないのです。あれもやりたい、これもやりたい、あれを聞きたい、これを聞きたい、あれを見たい、これも見たいと、いつでもその欲しがるエネルギーが働いているのです。人間ばかりでなく、どんな生命でも、欲しいものを得よう、得ようとしてしまうのです。欲しいものを得たら、もう探求するのをやめた方がいいでしょう? それがやめられないのです。それは不思議な働きなのです。欲しいものを得たら次にはまた違うものが欲しくなる。さらにまた違うものを欲しくなる。この、欲しがる感覚、気持ちは消えません。
たとえば寒いなら暖房をつける。そうすると暖かくなる。暖かい空気が欲しいと思って、暖房をつけたら暖かい空気が入ってきて、その「欲しい」という渇愛は消えるのです。でも、それでは終わらないでしょう? 次には違うものを欲しがってしまうのです。暖かくなったところで、それでは煎餅でも食べてお茶でも飲もうと、次のものを欲しがってしまうのです。そして、煎餅を食べてお茶を飲んだところで終わるのかと思えば、そうじゃないでしょう。時間も経ったし疲れてきたから、寝ようと。あるいはお風呂に入ろうということになる。そうやって次から次へと欲しがるものは生まれてきます。
それだから探すことには終わりがなく、生命の苦しみには終わりがない。そして死ぬときにも、もっと生きていたいという、欲しがる気持ちで死んでしまう。そうなると、死んでもそのエネルギーは消えない、ということで輪廻するだろうということが推測できるのです。現在の我々の生き方を見ていると我々はぜんぜんストップしませんね。考えるということもそのひとつです。ひとつ考えると、考えたくて考えたくて、考えるのです。考えたいことを考えて、終わったらやめればいいのに、こころは止まりません。考えて終わったら、それから次、というふうになってしまうのです。
読みたい本を読む。しかし、読んでいる途中で、これが終わったら他の本を読みたいなあという気持ちがすでに生まれているのです。そんなふうに、我々の活動は止まりません。活動を続けることで、生きているということになります。死ぬときも同じ気持ちだから、そこで活動は止まらないだろうと。いつでも何か欲しがって、欲しがって、そこで生きている、その欲しがる気持ちを渇愛といいます。
もう少し具体的に教えてください。
欲しがる気持ちといっても、顕微鏡で見ると3種類の欲しがる気持ちがあって、それら3本の糸が組み合わさって1本のひもが編み上がっている、3本の糸が1本に巻いているような感じの気持ちなのです。
1本目は、ものを欲しがる気持ち。煎餅を食べたい、テレビを見たい。音楽を聴きたい、服を着たい、暖房をつけたいと。からだに触れるものを欲しがる気持ちです。からだに触れるものといえば、目に見えるもの、耳で聞こえるもの、舌や鼻で感じるもの、からだで感じるもの、その5つですね。その欲しい気持ちに従って、食べたり買ったりしますが、おいしいものを食べれば、次には何を食べようと考え、CDを買って音楽を聴いても、今度はどんなCDを買おうかなと、ずーっと終わらないのです、ものを欲しがることは。
2つめの欲は、死にたくないという気持ち。生きていたいという気持ちなんですね。1番目のように、ものを欲しがるのは、生きるためなんですね。生きていても満足しませんね、だから今までも生きてきたのですけれど、まだ満足していない、もっと生きていたいと。すごく存在欲があるのです。だから人間というのは、歳なんか聞かれると、あまり気分が良くないでしょう。若いときは元気に返事しますけれど、歳をとるに従って、何か聞かない方がいいことのようになってきます。まだまだ満足していないから、まだまだがんばりたいからね。
そして、問題の3番目です。3本目の糸は「破壊欲」です。ここまで理解できれば、破壊欲も理解できるでしょう。生きていたいという気持ちがあれば、生きること自体がものすごい競争ですし、欲しいものがすべて手にはいるわけではありませんから、欲しいものというのはすごく苦労して競争して、戦って得なくてはいけないのです。
この3本の糸が1本に編み上がったものを渇愛といいます。
ですから、存在というのは、私たちの希望とは反対の方向へ動いているのです。私たちは生きていきたいのだけれど、置かれている環境を、我々は壊そうとしているのです。我々は自分のからだがすごく好きで大切なんですが、じーっと置いて動かさないでおくとからだはどうなりますか? 壊れていって、死んでしまうのです。ということは、からだ自体も我々を殺そうとしているのです。
ですから、がんばってがんばって、苦労して、競争して、戦うのです。水を飲み、ご飯を食べ、運動し、服を着て、暖房をつけ、本を読み……。我々の頭だって、どんどん暗くなって落ち込んでいっちゃったら、からだは壊れていってしまいます。ですから、頭をいつでも楽しく、明るい状態に、動いている状態にしておかないと。だからみんな、芸術に触れたり、見たり聞いたりふざけたり遊んだりしている。そういうふうに必死で活動しないと、死んでしまうのです。
破壊欲についてもう少し教えてください。
私たちは生きていたい、そしてものを欲しがるのですが、生命は破壊欲もなければ生きていられないのです。我々は、自分のプラスにならないものを破壊していくのです。そしていつしか自分の置かれている環境を壊そうとするのです。壊したい気持ちも欲なのです。ですから、私たちの生き方というのは、あるものを育て、あるものを壊す。
たとえば私たちは、害虫なんかは殺してやろうと思っているじゃないですか。ウィルスや細菌を殺してやろうと思っているでしょう。そのように、いろいろなところで、いやなものを壊そうとして行動している。戦争も、結局は同じ欲求の延長線上にあります。会社に行っても、自分の邪魔をしようとする連中には、すごく怒りを感じ、何とか邪魔しようという気持ちが生まれてくるのです。その人を放っておけば自分がダメージを受ける。女性が嫁に行ったら、姑がいろいろなことを言って行動を規制する。そこで、この人はいやだと怒りが生まれ、当然ながら破壊欲が生まれてくるのです。
我々は誰でも、悪い条件を壊して、良い条件を揃えるということで生きているのです。じゃがいも1個を持ってきても、洗って、悪くなっているところを包丁で取って、皮をむいて、それからゆでたりして食べますからね。じゃがいも1個を見ても、食べたいからと、そのままぱくっと食べるわけにはいきません。どこか一部を壊さなければならないのです。ここにもやはり3本の糸がからみあっています。じゃがいもが欲しいという1番目の欲、これを食べて元気になりたいという2番目の欲、そして洗ってきれいにしてゆでて食べましょうという、3番目の破壊欲、そうやって渇愛は3本セットで動いているのです。(この項つづく)