「自由」と「意志」
人間に自由はあるのかないのか、ということを明確にしたい。他宗教では、人間は神様の創造物だと言っています。そうなると、人間の行為は、神の計画通りに行われるものになる。それは、人間に自由がないということです。しかし、全知全能の神は、人間に自由を与えたと言っている。私はそれに矛盾を感じます。与えられた自由で神に逆らうこともできるし、それが罪だといって罰を与えることはできないはずが、神に逆らうと地獄に堕ちるとも言う。
仏教も、人間は自由だと言っているような気がします。しかし、人間が業によって生まれて、業によって生きていると、堂々と業論を説いているのです。今の生き方は、過去の業の結果であるならば、人には自由が無いのではないでしょうか。業論を持ち出しながら、人間に自由があると言うと、それも矛盾ではないでしょうか。他宗教の神という概念に、業という概念を置き換えているだけではないでしょうか。
人には自由があるのかないのかという疑問には、簡単に答えられるものではありません。あるとかないとか言うためには、それなりの説明が必要です。仏教の業論によれば、人の自由は成り立たないのではないか、という問題を最初に考えましょう。「神」という概念に「業」という概念を置き換えていると言われても、構わないのです。どう見ても、あまりにも似ているのですから。人の生き方、運命などは、業によって定められているといえば、人は文句を言わず自分の人生を受け止めなくてはいけない。また、過去の業とは一体何なのかと、今はさっぱりわからない。神とは何なのか、いるのかも、さっぱりわからない。業も、神も、信じるしかない概念に見える。だから、この二つの概念はあまりにも似ているのです。
しかし、表面的に見ると似ているだけで、実際は全く似ていないのです。神といえば完全に別な人格で、人間という別の人格の運命を定めるのです。しかし、業は自分自身の行為の結果なのです。過去で何をやったか、今はわからないかもしれませんが、過去で業を行ったのは、自分自身なのです。ただ過去を覚えていないから、今の人生には納得がいかないことが多々あるだけです。私たちは時折「何でこうなるのですか」と迷うことがあります。それも、その結果の原因がわかっていないからこそ起こる迷いなのです。今の人生においても、過去のことはほとんど忘れている。断片的に、いくつかの出来事を覚えているだけです。過去世の出来事などは、全く覚えていないのです。
だから人は、「何で私はこうなっているのか」ということは、わからないのです。その不満に対して「神」という概念は、便利な慰めです。仏教は、今の自分は過去の自分自身の行為の結果だと言いますが、過去の自分がわからないから簡単には納得いかないのです。業は自分の意志で行った行為です。ですから、否応なしにその結果を今受けているのです。だから人が自由であるかないかは、単純に答えられないのです。
では、「自由」と「業」の関係は、仏教によるとどのような説明になるのでしょうか。
これは、今の自分で説明できます。生きるということは、行為をすることです。行為はいろいろあります。まずどうにもならない、避けられない、やるしかない行為があります。たとえば、呼吸、食べること、眠ることなどです。この点では、人間に自由はありません。選択もできません。これも業だと言うと、理不尽なことになります。しかし、行為には結果があります。呼吸することで、生き延びられる。食べることにも眠ることにも、それなりの結果があります。二番目に、中間的な行為もあります。それは、見たり、聞いたり、歩いたり、座ったり、話したり、身体で感じたり、考えたりすることです。眼があるから見える。耳があるから聞こえる。それも、どうにもならない。しかし何を見るか、何を聞くかは、私たちに選ぶ権利もあります。座ることをやめて歩くこともできるし、歩くことを止めて座ることもできる。考えている内容を変えることもできる。だから、中間的なのです。この行為にも、結果は当然ある。ただ眼に入ったから見えたという場合と、自分で見た場合とでは、結果は全く同じではありません。自分で見る場合は、自分の責任なのです。自分で、敢えて変なものを見たところで気持ちが悪くなったというならば、それは自己責任です。変なことばかりを聞いて性格がだらしなくなったというならば、それも自己責任です。この中間的な行為の場合は、業になったりならなかったり、両方なのです。
三番目の行為もあります。それは完全に自分の意志で行うことです。人を誉めるか叱るか、助けるか殴るかは、自分の判断なのです。職業として医者になるか弁護士になるかは、自分の判断なのです。泥棒して金を儲けるか、真面目に働いて金を儲けるかは、自分の意志で行う、自分自身の判断なのです。この場合は、悪い行為を選ぶと悪い結果になるし、良い行為を選ぶと良い結果になるのです。これが正真正銘の業なのです。
「行為に結果がある」というのは、純粋業論なのです。上で述べた二番目と三番目の行為は、自分の意志で選ぶことができるのです。一旦選んで行為を行ったら、結果は避けられないのです。しかし、自分の意志で行為を選ぶことができるので、自由なのです。自由と業の関係は、こんなところです。
仏教は、一部自由、一部定め、という教えのようにも受け取れますが。
違います。上の説明によると、一部自由論に思われてしまうのは無理もないかもしれませんが、仏教では何についても一部論などはないのです。仏陀は「完全論」という立場で、「真理」という言葉を使っているのです。真理といえば事実で、物事のありままの説明なのです。だから、完全論なのです。しかし言葉を入れ替えただけで、答えにはなりません。
仏説は何でしょうか。仏説は、因縁説なのです。いかなるものでも、因と縁があって現れるのです。我々が疑問に思うどんな現象に対しても、なぜそうなったのかという、その因と縁を仏陀が語るのです。仏陀が説かれるその因縁は正しいか否かと調べる方法もあるのです。因か、縁か、一つでも崩れたらその結果も崩れてしまう。だから、正しいのです。
自由という概念についても、答えは「自由です」、「自由ではありません」のどちらでもありません。自由という概念が世の中にあるならば、それなりの因縁があって言っているのでしょう。その因縁を調べることが、仏教の仕事なのです。
「人が自由な存在だ」と言うならば、それも何か因縁があって言っていることでしょう。仏教はどちらかというと、人に全く自由がないという立場には反対ですから、自由という方向に傾いている。自由派に傾いているが、自由だと断言することはしない。ですから答えは、「因縁により、自由です」か、「人の自由も因縁によります」です。
因果論を持ち出すと、難しくなります。人は自由かそうでないか、単純に理解したいのです。「因縁により自由」って何なのですか。
先ほど、三種類の行為を説明しました。三番目の行為(盗むか、仕事をするかなど)は自由だと、自分の責任で、自分の意志で行うものだと言いました。そうなると、三番目の行為について人が完全に自由ではないかと思われますが、事実は少々違うのです。
何かを判断するために、行動を決めるために、人はいろんなデータを参考にするのです。その結果として判断するのです。いくらか具体的に考えましょう。ある人が、二人に対して悪口を言う。片方が悪口を言った相手を殴ると決める。もう片方は、気にしないということに決める。だから「悪口を言ったら必ず殴られる」という決まりはありません。言われた相手が自分の意志で判断した結果として、殴られるか、無視されるかという結果になるのです。殴ると決めた人は、その判断のために色々データを参考にしたでしょう。無視すると判断した人も、自分の持っているデータを参考にして判断したでしょう。この二つのケースを見れば、簡単に理解できると思います。
つまり、我々は自分の意志で何かを判断するとき、何かの行為を決定するとき、色々なデータを参考にするということなのです。今までの教育、躾、環境などによって判断は変わるのです。今までの習慣、癖、性格、生き方によっても判断は変わるのです。真理を知っている人の教えを勉強し、理性を保てば、いつでも正しい判断ができるのです。人間は、「好きだ、嫌いだ、嫌だ」などの感情に基づいて判断してしまうのが普通です。その人は、「だってどうしようもないじゃないか」と言い訳をするのです。怒り、憎しみ、嫉妬、落ち込み、思い上がりなどの感情を優先すると、判断は悪くなるに決まっている。知識を育てることで、理性を保つことで、正しい意志で正しい判断ができるのです。ですから、人の自由も因縁によるものです。