幸せなのに空しいのはなぜ?
別にこれという悩みもないのに、わざと何か悩んだりします。考えることがなくなって心が空白になるのが恐いんです。気を紛らわすために本を読んだりして、何かから逃げているようなのです。
仏教は、ズバリ、その問題に答えようとしているんです。家庭もうまくいっている。友人関係も仕事にも問題はない。それでも何か足りないと感じる。おっしゃるように、自分ではどうにもできない何かがあるのです。
「生きるとはどういうことか、何か生きる意味があるのか」と自問すると、正直なところ、我々はただ生まれてただ生きている。それだけなのです。そう言われると、イヤな気持ちがするでしょう? 人間はそこを認めたくないのです。「何か尊いものがあるはずだ、人生は意味深い、命は素晴らしい」と思いたいのです。しかし、事実は事実です。現実を見てください。我々個人個人は、つまらないことばかりやっているでしょう? バイトに行ったら、さんざん偉そうに言われる。人づきあいでちょっと失敗したら、たいへんな目に遭う。何とかがんばってうまくやっても、毎日歳を取っていく。病気になって、やがて死んでしまう。実際にやっていることを見ると、どこが尊いのでしょうか。「尊い命」など、どこにも見つかりません。
だから釈尊は、いい加減に、ありのままの事実を認めたらどうですか、とおっしゃるのです。人間というのはどうということはない、ただ生きているだけのことではないのですか、と。
因果法則とは「ものごとというのは因縁によって変化していくだけだ」ということです。川の水が氾濫したのは、大量の雨が降ったからにすぎません。世紀末でもなんでもないのです。人がいきなり泣き崩れたのは、その人にとって人生の中で期待しないことが起きたというだけのことです。そのうちに直ります。自分の性格はこれだとは決められないのです。好きじゃない人に会うと何となく暗くなる。気持ちが通じている友人を見ると明るくなる。その時の自分の利益によって、人は変わっていくのです。立派なことを言っている人も、次の日にはわかりません。我々は、ただ、状況に反応しているだけなのです。
因果法則というのは人間の頭では理解できないほど難しいのですが、単純に考えるとそんなものです。人が泣いているからといって、泣き虫ではない。親切に振る舞ったからといって、できた人ではない。何回か試験に合格したからといって、頭がいいわけではない。一、二回試験に落ちたからといって、バカというわけでもない。すべてその時その時の条件に応じた反応。それだけです。誰でも嫌なことをされると怒る。親切にされるとニコニコする。あの人は悪人だとか、善人だとか、そんなことはあり得ません。その時その時の反応にすぎません。「一体全体あなたは何者か」と聞かれても、答えはないのです。
だから人間も、下等動物となんの変わりもないのです。人間には知識があると威張っていますが、世界を見ると、知識は人殺しや自然破壊の規模を大きくしているだけのことでしょう。人が必死でやっていることは、結局、懸命に次世代を育てる。それだけの人生です。次の世代がより良いことをしてくれるのであればそれでもいいのです。でも次世代も次世代を育てるだけ。その繰り返しです。生命は皆そんなものです。だからどうということはない、空しい、くだらない、バカらしい、何をやってもこころから納得いったということにはならない。それが事実です。
「幸福になりたければ真実を知りなさい」というのがブッダの言葉です。釈尊ほど立派に真理を語った人はいません。仏教に四聖諦という四つの基本的な真理があるのですが、ここまで語った「生きることは苦しい、人生は空しい」というのが四聖諦の第一番目です。
質問の中に「こころの空白が怖い」という話がありましたね。なぜ空白が怖いかというと、刺激に反応することが生きることだからです。刺激がなくなると、生きるということが成り立たなくなるのです。死ぬのが怖いのは自然なことです。それで空白を怖れて本を読んだり、強引に友達に電話をしたりするのです。
そうやって逃げていてはいけないと思うんですけれど、ではどうすればいいかわからなくて、そこから動けなくなるんです。
怖くなることも刺激です。怖くなると、それに反応して何かをするでしょう? 逃げようとすることも刺激です。刺激を得たいというパターンからは逃げられません。これを「輪廻」というのです。それはこれからも、ずっと続くんです。
そんな…。カラクリがわかっているのにずっと続けるのですか。それはなぜですか。
なぜそのカラクリを続けるのか。それが二番目の真理です。これほど生きることは空しいのに、人間は、必死で生きていきたいんです。ここに矛盾があるんです。生きることは空しいと思っている人でも、どこかに「生きていきたい」という気持ちがある。だからこの悪循環を限りなく続けるのです。
生命には「生きていれば何かいいことがあるんじゃないかな」という期待感があるんです。それを欲といいます。専門用語では「渇愛」です。そのために輪廻から逃れられません。死への恐怖感も、そこから出てくるのです。
生きている中でたまに楽しいことがありますね。まれに「幸せだ」と思う瞬間もないわけではない。それが忘れられないのです。例えば子育ては重労働で大変苦しいのに、赤ちゃんが時々ニコッと笑ったら疲れが取れる。あの苦労がチャラになるんです。そのように、人生の中には、たまに、ちょっと「いいな、楽しいな」という時がある。それでだまされてしまうんです。
もしそれをありのままに見て損しているとわかったら、生きているのがもっと空しくなって、死にたくなるんじゃないですか。
死んでも解決にはなりません。因果法則では、死んでもエネルギーは消えてくれないのです。
死んでも解決にならないのであれば、いったいどうすればいいのですか。
さっき言っていた渇愛という執着を捨てればいいのです。渇愛を捨てた瞬間に、苦からの解放ということを、はじめて味わうんです。それが三番目の真理です。そこには、まるっきり人間の脳細胞で理解も想像もできない幸福感があります。そこに救いがあるのです。
それを「悟り」と言いますが、悟りとは何かと知ろうとしても、今の脳細胞ではわからないのです。でも、それではどうしたらいいのか困りますね。だから釈尊は、そこに至る方法も説かれているのです。それが八正道という四番目の真理です。その道によって、自分で救いを獲得するんです。
二番目で終わってしまったらどうしようかと思いました(笑)。
二番目で終わったら困りますね。お医者さんが「あなたはこういう怖い病気ですよ」と脅して言う場合は、治療法を持っている時でしょう? お釈迦さまがはっきりと、「この人生は苦しい」という恐ろしい話を言うのも、解決法を持っているからなのです。
でも、とにかくまず一番目の真理がちゃんと理解できないと、次のステップが踏めないですよね。
いえいえ。この四つは因果法則だから、全部セットとしてつながっています。一番目が本当にわかったら、同時に二番目もわかっている。二番目がわかったら、その人は執着を離れて、もう四番目までわかっているのです。ですから、一つが本当にわかったら、サッと四つ目まで進んでしまっています。
渇愛をなくすと解脱を経験できるのです。解脱というのは自由ということです。これは理解しようとしても無理です。理解できなくてもせめて納得したいと思うならば、一番目と二番目の事実を見てください。どうにもならない空しい状態を知ると、「何だこれ」という気分に陥るでしょう? その気分を完全に解決した状態が解脱なのです。「人生は空しい。しかし、空しくない状態がある。人生は苦しい。しかし、苦しくない状態がある」ということです。
ということは、苦しみは自分がつくりだしているということですか。
苦しみの一部は、自分でつくり出しています。頭で色んなことを考えてゴチャゴチャ悩む苦しみは、自分でつくっているのです。例えば人間関係で悩んだりするのはただの妄想だから、明らかに自分でつくっています。人は、たいがい、自分でつくった余計な苦しみで悩んでいます。勝手に「うまくいってない」と思いこんで、苦しんでいるのです。
でも自分ではどうにもならない苦もあります。例えば、「別に悩みはないけれども死が怖い」ということはどうしようもありません。それは自分でつくり出しているのではない、本質的な「苦」なのです。本気で考えるべきなのは、この本質的な「苦」の方です。別にこれという問題はないけれども何か空しい、社会生活はうまくいっているけれどどこか納得いかない、という苦しみ。仏教の修行はそういう本質的な「苦」を解決するためにあります。
「本質的な苦」というのは、それほどピンと来ない言葉です。
では、人の苦を二つに分けてみましょう。対策方法が見える苦と、対策方法は見えない苦。ケガをして苦しんでいるとき、治療すれば苦は消える。歩けなくなって不自由になったら、車椅子でも使えば良い。このように、何とか解決法が見えてくる苦もあります。
しかし、人は老いてゆく。それは決して楽しいことではない。老いる苦しみはどうすれば良いのでしょうか。人は必ず死ぬ。誰も、死を待ち望んでいるものはいない。実際に死ぬのは一回だけですが、生きている上でいくらでも死の恐怖感に遭遇することがある。必ず死ななくてはならないという苦に対しては、どうすれば良いのでしょうか。
全てのものは、絶えず変化して消えてゆく。その課程で人は、好きなものから別れなくてはならなくなります。会いたくもない人と付き合わなくてはならなくなります。財産・権力・能力・体力が消えていく。消えるものは惜しくないとしても、新しい財産などを得るために、努力しなくてはならなくなる。それまた、苦になる。これらは、一切は無常だから起こることなのです。このような苦はどうにもならないものです。
今説明したのが、対策方法の見えない苦です。これは四聖諦の一番目の苦聖諦です。お釈迦さまは、解決方法が決して見あたらない苦のみを、第一聖諦の内容として挙げられたのです。集約して説かれた「要するに、五取蘊は苦である」という言葉を考えて欲しい。五蘊といえば、身体と心なのです。それは苦だと言えば、「汝そのものは苦である」ということになります。そう言われると、一般的な知識ではどうにもならないでしょう。本質的な苦というのは、このように一般的には何の解決も見出せない苦なのです。ブッダの教えは、その苦から脱出する方法なのです。
解脱・涅槃と称せられる究極の幸福は、全ての言語表現の領域を超えていると説かれている。それは、本質的な苦に対する対策方法は、悟りをひらいていない人間には考えられないからです。