「私」は「誰が」つくったの?
「自我は形成されたものだ」と聞いて、そうであるならば「誰が、何を材料に」という問題があると考えました。「自我」とは、生まれながらに持っていたものからつくられるのか、自分が現れた現象にどう対処するかによって自分で形成したのか、あるいはそれ以外なのでしょうか。
「自我は形成されたものである」というのは因果法則を語っているものです。「誰が」という因縁はそちらの思考でいれたものです。それは論理的に成り立ちません。ですから、「自我とは生まれながらに持っていたものからつくられる」という考えは正しくないのです。「自分が現れた現象にどう対処するかによって」というところまでは良いのですが、「自分で形成したのか」と問うと「誰がつくったのか」という意味になるのです。ですから正しくないのです。「あるいはそれ以外なのですか」とは、自分に考えられない誰かにつくられたのですかという意味なのです。それも正しくない。「誰がつくったのか」ということはもともと正しくない、間違いなのです。自我を自分でつくる、他人がつくる、勝手に自然に現れる、初めからもあるなどは人々の推測であって、事実ではありません。このような考えは正しくない邪見であると説明するために語られたのが、因果法則なのです。ですから、「自我は形成されたものである」とは自我に対する正しい答えなのです。
実践して真理を発見しない限り、俗世間の常識で理解するのは難しいと思います。俗世間の知識は主語と述語で成り立っている。ですから、理解するために「誰か」という概念がどうしても必要なのです。「自我は形成される」と言われたら「誰かにより?」という疑問が生じる。俗世間の知識では「自我は形成される」だけでは文章が成り立っていないような気がするでしょう。しかし、「誰か」と言う概念は間違いで、邪思で、正しくない。要らない語なのです。
経典に、次のようなエピソードがあります。「Avijjā paccayā saṅkhāra…無明によりて行が生じる」と聞いて、ある比丘が、「誰が無明によりて行をつくるのですか」と訊いたのです。お釈迦さまは、とんでもない質問だときつく叱られました。これは「無明によりて行が生じる」という因果法則だ、と。
「Avijjā paccayā saṅkhāra…無明によりて行が生じる」は、日本語では「生じる」という言葉が入りますが、原語には動詞はありません。直訳は「無明によりて行」、それだけです。動詞を入れるならbe動詞です。しかしbe動詞を日本語に訳すと「無明によりて行がなる」となって、意味がわからなくなります。日本語に訳すには「起こる」という動詞を使うのがいいかもしれません。「無明によりて行が起こる」と。
形成されるという動詞を、私は「つくる」という動詞に入れ替えてしまった。ですから、因果法則の「起こる」という動詞を他の動詞に入れ替えないように説明してほしいのです。
ではもう一度考えてみてください。体に何かが触れると感覚が生まれるでしょう? その感覚を誰がつくったのですか? 正直に答えてみてください。
感じたのは自分ですが、やはり、もともと備わっていたのだと思います。
何がもともと備わっていたのですか。
感覚です。自分がつくったのではなく、感覚がもともとあったということだと思います。
もともとその感覚があったということは、例えば人にぶん殴られて痛いとすると、ずっとその痛みがもともと備わっていたという意味になるでしょう。ということは人にぶん殴られても、ぶん殴られなくても堪らない苦痛の中に常に生きていることになるのです。いかがでしょうか?
苦痛として感じるのは殴られた時ですが、その感覚はもともとあったのではないかと思うのです。
懸命に正しく考えようと努力しているのは感じますが、微妙に脱線しています。まあヴィパッサナー瞑想を続けていけば、そういう間違っているところはわかってきますので、心配する必要はありませんが。心配するほどではないといっても、間違った考えを正さなくてはならないのです。
では説明しましょう。石が足にぶつかったら、痛い。それまではその痛みはなかったのです。石がぶつかった瞬間に、痛みという現象が起こったのです。石がぶつかるまでは足に痛みはなかったのです。石が足にぶつかった原因で痛みが生まれたのです。私は先程「体に何かが触れると感覚が生まれるでしょう? その感覚を誰がつくったのですか?」と訊いたでしょう。その問いに答えてくれなかったのです。「誰がつくったのですか」というセクションを避けて「感覚はもともと備わってあったのでは」と返事をなさったのです。その返事が正しければ、人に殴られても苦痛でしょうし、殴られなくても苦痛だということになります。しかし、事実は違います。殴られると痛いのですが、殴られなかったら痛くはありません。
その問いの答えとして「誰かが感覚をつくったのではなく、感覚が起こった」という答えを出してほしかったのです。それが、正しい因果法則に基づいた答えなのです。また「起こる」というその単語が出なかったということは、相当瞑想をがんばる必要があるということでしょうね。これは単純に見えますが、真理の世界はそう簡単単純ではありません。
とにかくその時(石が足にぶつかった時)のすごい痛みは、誰かがつくったわけじゃないんです。石がぶつかったという原因によって痛みが起きたんです。でも石が壁にぶつかっても痛みはありませんね。自分の肉体には痛みを感じられる感受性があった。だから痛みが起きた。しかしその苦痛の感覚は、生まれつきついていたものではない。ある原因で痛みが起こり、その原因がなくなると痛みは消える。それだけのことであって、一切はそんなものなのです。
生命と物体の差は何ですか? ある物体に感受性があって、物がその物体に触れると感じる。それは生命という。ある物体に何が触れても何も感じない、反応しない。それは物体という。要するに感受性があれば、生命ということです。
シンプルな話なのですが、そこを人々は微妙に勘違いする。「生まれた時から感覚が備わっていたんだ」などと言うのです。「だって子供の時にも感覚があったし、今も感覚がある。私の感覚が消えたことはないのだから、やはり感覚はずっとあるんじゃないの」と思うかもしれませんが、一つ一つの感覚が、その時その時の原因によって、その瞬間に生起しただけであって、感覚という固定して変わらない何かがずっと存在しているわけではありません。触れるものによって、新しい感覚が生まれる。過去の感覚が消えて行く。噴水、川などの例えで理解出来ると思います。「川」があるように、存在するように見えるが、実際は瞬間瞬間、今ある水が流れて新しい水で置き換えてゆくプロセスなのです。川、噴水という実体はありません。
感覚も全く同じ働きです。次から次へと変わっていくのです。皆、勘違いするのは、感覚が絶えず変化することです。絶えず変化するから「無常」ではなく、「常住」だと勘違いする。皆、タマシイ、霊魂、自我、などの単語を、この瞬間瞬間絶えず変化して変わっていく感覚に対して言っているのです。どのような単語を使用してもただの単語だから問題はありませんが、「常住」だと勘違いするところで、一切の邪見が入ってしまうのです。苦しみから脱出することは出来なくなるのです。
感覚も、生まれつき備わっているものではなく、何かが触れることで起こるものです。生命の身体に、又、こころに、何かが触れないという瞬間がありませんので、感覚が絶えず変化して続くのです。だから麻酔をかけられるのです。麻酔は、その時に肉体に感覚が生まれる原因を邪魔するのです。それも永久的なものではなく、薬の効果が消えたら感覚が戻ります。どんなものでも、「ずっとある」ということはあり得ません。その瞬間、その瞬間、因縁によって生滅しているのです。一つ消えたら別のものが生まれるのです。
ではもう一度訊きましょう。石が足にぶつかったとして、足の痛みを誰がつくったのですか。石が痛みをつくったのですか。
………。わかりません。
答えはシンプルなのに、妄想しすぎるとわからなくなるのです。もしも「なぜ痛いのか」と訊かれたら、「石がぶつかったから」と簡単に答えるでしょう。真理は因果法則なので「なぜ」という問いには正しい答えがあるのです。「誰が」という質問には答えはないのです。だから、「感覚は誰がつくったのですか」という問いには「答えがない」というのが答えだということになります。「誰が」という考え方自体が間違った役に立たない考え方で、考えても考えても真理には至りません。妄想の世界でグルグル廻ることになるのです。「誰が」と考えてしまうのは、言語の問題もありますね。日本語で「形成された」と聞くと、「では誰が」という間違った思考が、どうしても出てきてしまうのですね。
すべてのものは因縁によって合成されたものであって、実体はありません。例えばこの絨毯も、これをバラすと短い細い糸と長い糸がたくさん出てきて、それで終わりでしょう? それを組み立てたところで絨毯という現象が現れてくるのです。それで、「この絨毯は人間が作った」というのは正しくありません。「誰が」ということはないのです。人間に絨毯は作れません。人間の指先と思考が二つの原因になっただけのことで、材料を外からもってきて、思考で決めた方式によって、指先で組み立てたのです。
「自我」も、同じように、合成されたものだということですか。
「自我」というのはもっとクセモノで、ただの幻覚にすぎません。
生きているとは感覚があるということです。ある物質に感覚というものがあれば、生き物です。「自我」が現れる一番メインの原因は感覚です。その感覚というのは瞬間瞬間変わります。一つの感覚が壊れると新しい感覚が生まれるのです。物質が変わるたびに物質の中にある感覚は変わるし、感覚が変わるたびに物質も変わる。そうやってお互いに依存しあって流れていくのです。「足が痛い」というのは、ある感覚がある感覚に変わっただけのことです。ところが私たちは、足が痛いという現象を「私が痛い」と表現する。誰かが石を足にぶつけたら「私に石をぶつけた」と言う。なぜ足を「私」と言うんですか。足は「私」ではないでしょう? 一個一個の部品は「私」ではない。それぞれ名前があって、別の機能があります。それらの部品やさまざまな感覚から「私」という幻覚をつくりだすのです。
そこを明確に発見しない人が、「私」「あなた」という妄想概念をつくって、そこから苦しい世界が現れてくるのです。「自我」という幻覚がなければ、楽にいられます。石が足にぶつかったら「足に石がぶつかったぞ」「足が痛いんだぞ」ぐらいで止まれば、怒りも憎しみも生まれません。「あいつが私に石をぶつけた」と思ったとたん、裁判に訴えたいくらいの気持ちになるんです。
「自我」は、いつ現れるのですか。
答えは「無始」ということです。しかし、「自我」が現れるのではありません。「自我」という錯覚、幻覚が現れるのです。感覚が生じると同時に「自我」という幻覚も牙を剥く。「痛い」と認識したら、そこにはもうすでに、「私が」という自我が割り込んでいます。「痛み」は、その瞬間だけにあって、原因が変わると跡形もなく消えてしまう単なる現象にすぎません。私たちは、「痛い」ではなく、「痛み」と客観的に観ることもできるはずです。しかし、皆すぐに「私が痛い」と思ってしまいます。そこに「私」が入りこむと、赤ちゃんの時から今まであるすべての「痛み」が、「私が痛い」という妄想の、無明の世界になってしまいまうのです。
だから人々は、今は存在しない過去を妄想して、ひどく苦しんでいるのです。「あいつは20年前に私をぶん殴ってひどい目に遭わせた」と悩む。それは「自我」という幻覚のせいです。自分で苦しみ憎しみをつくっているのです。そうやって、嫌なことをわざわざ思い出して、思い出して、地獄に堕ちるほど苦しむ。20年前に殴られた時は、そこまで苦しむほど痛かったわけじゃないのです。痛みはすぐに治まったはずです。まあ殴られた程度によって、骨折までしていたら、痛みはしばらく続いたかもしれません。その場合も、それは殴った人間のせいというよりは、骨が折れたから、そこでまた新しい痛みをつくり続けた。それだけのことなのです。
自我というのは幻想で、実際にあるのは物質とか現象にすぎないということは、頭では理解できると思います。でも実際の生活に入ってしまうと、すぐ「痛み」が「痛い」になってしまう。それはどうしてなのか。何かこの誤解が役に立っているということがあるのでしょうか。
いえ、全然役に立っていません。それどころか、そのために、ものすごく苦しんでいるのです。欲、怒り、憎しみ、嫉妬、落ち込みなどの全ての煩悩で汚れるのです。しかし、確かに、なぜそうなるんでしょうかね。最初から「痛み」を「痛み」と見ればいいのにね。
そういう無明(真実がわからないこと)が生命の特徴なんですね。あと、「痛い」と言う方が楽なんです。足に石がぶつかったとして、「この場所に痛みがある」と言うと、なんかややこしいでしょ。「痛い」と言った方が楽です。そういう怠けと智慧がないという無明で、そうなってしまうんです。
お釈迦さまは、無明を断てば解決するのだと説かれるのです。
ヴィパッサナー瞑想で、できるだけコマごとにラベリングしようとするのは、無明を断つ訓練です。強引にでもやっていて集中力が出たら、本当の姿が観えてきます。そこではじめて自我が幻覚だとわかるのです。ただ頭で理解しただけでは、自我はなかなか弱くなりません。
自我が強い人ほどこころが弱いのです。だから逆に攻撃的で、危険なのです。自我という幻覚が減ってくると、かなり穏やかな人になります。しっかりした人間になるのです。