夫婦の幸せに必要なこと/結婚しないほうが仏教的?/怒りに対抗する唯一の方法/無知な人間は悪なのか?/智慧を教えることは可能か?/妄想の遮断は何のため?
パティパダー2016年12月号(210)
夫婦の幸せに必要なこと
もうすぐ結婚をするのですが、夫婦が幸せであるために何かお言葉をいただけたらと思います。
「わがままを捨てる」
結婚とはとどのつまり、「わがままを捨てること」です。結婚したら、もう自分勝手には生きていられなくなるのです。そんなにおめでたいことでもありません。好き勝手な、楽々と自由な生きかたができなくなるわけですから、ある面ではすごく不幸な出来事ですね。
しかし、結婚を「自分のわがままを直すきっかけ」という気持ちで受け入れるならば、自分の修行になります。「自分勝手な生き方は終了しました。これからは人の意見や気持ちも、相手の要求(ニーズ)も理解しなくてはいけない。どちらかというと、相手のニーズを優先しなくてはいけない。私のことは措いておけばいいや」という感じで、自我を捨てる気持ちで生きれば全然問題はありません。そんな程度で十分だと思います。自我を捨てることで幸せになれると思います。
「結婚」という言葉自体、「むすぶ(結)」という漢字が入っているから、自由がないという意味でしょう。むすぶとは、関係を作る、コネクションを作ることですから。意図的に、喜んで自分の自由を捨てる行為が、結婚なのです。
生命は自由を欲する/生きるためにしがらみを作る
喜んで結婚するのだから、ほんとうならば夫婦は誰だって上手くいくはずでしょう。結婚したいから結婚したでしょうに。社会も結婚しなさいと背中を押している。社会的にも、結婚して生活する方が正しい、一人前だと認めているでしょう。だったら、夫婦は上手くいくはずです。なぜ皆が認めていることにも関わらず、結婚は上手くいかないのでしょうか?
その答えは、「生命は本来、自由を欲している」からなのです。自由という求めるものが基本にあって、しかし生き延びるためにいろいろなコネを作る必要がある。結婚はそのひとつです。そこで矛盾にぶつかって、対立が生まれるのです。たとえば、会社に入ったひとが職場で上手くいかなくなる。会社に入ったとは自分の自由を失ったということなのです。そこで、本来、自由に生きていたいという隠れた精神と、会社の就業規則などが対立を起こすのです。当然、苦しくなります。しかし、自由を捨てるという「苦」を受け入れない限り生きていられません。この矛盾を理解した方がいいと思います。
自我が割り込むと、隠れていた「自由になりたい」という精神がおかしな働きをするのです。しかし、私たちがイメージ・思考する自由とは、自我の産物です。ただのわがままなのです。これは本物の自由ではありません。わがままがもたらすものは、自己破壊です。自己破壊と自由になりたい気持ちとは同じものではありませんね。誰もが自由になりたいと思ってやっているのは、わがままを張ることなのです。それは自由という幸福をもたらすどころか、自己破壊に結びつく危険な行為なのです。
本物の自由は誰にも奪えない
結婚する人は、わがままにサヨウナラと言わなければいけません。そうすれば、結婚したからといって自由を失うことはありません。なぜならば、本来の自由とは結婚とか、ちょっとした変化でなくなるものではないからです。本物の自由は、誰にも奪うことができません。私はわかりやすく、「人の尊厳」「生きる権利」という言葉で説明しています。結婚したからといって、生きる権利は奪われないでしょう。結婚してからも、自分の命の尊厳も、他人の命の尊厳も、大事に守らなくてはいけないのです。
わがままは自由ではなく、徐々に自己破壊していく道です。わがままな人は社会も認めません。攻撃して潰そうとします。社会全体的に、生命全体的に、わがままな生命を攻撃して潰そうとするのです。本人は自由だと勘違いしているけれど、それは自由ではありません。結局は、余計に敵対的な関係をたくさん作るだけになります。周りじゅうが敵になって、ライバルとなる関係を作ってしまう。もう生きていられません。
ですから、結婚生活では、いつでも自我を措いて、自分の好みでなくて、相手のこと・ニーズも考えて生きなくてはいけないことを理解すれば、日々、幸せを感じられるはずです。
結婚しないほうが仏教的?
仏教を学ぶようになって、結婚したり誰かと付き合ったりするのをやめたほうがいいなと思っています。そんなふうに考えるのは、あまり良くないでしょうか? 教えてください。
結婚してもしなくても人生は問題だらけ
何をやっても人生は問題だらけです。結婚してもしなくても、その事実は変わりません。結婚したければしてもいいが、結婚すれば完璧に幸せになれると勘違いしてはいけません。結婚するとは、自分で意図的に新たな問題を作ることです。その問題を解決するのは自己責任になります。結婚しても問題があるし、独身でいても問題はあるのです。どちらも同じです。結婚してから、やっぱり上手くいかないと離婚を決めたとする。離婚したら問、それで問題が解決しますか? 解決するどころか、新たな人生の問題が起きるだけです。子供の親権をどうするとか、生活や家計はどうするかとか。そのポイントを理解してください。理解すれば、まやかしなく生きていられます。
結婚したければする、したくなければしない。ただそれだけでは幸福になる保証は成り立ちません。世間的には何をやっても、人生は問題を増やして終わるだけ。そう理解しておけば、自分で物事の判断ができます。例えば犬を飼うとしましょう。犬を飼ったら楽しくて、もう寂しくないと思う。ご冗談を。犬を飼った時点で、新たな問題がどれほど現れることか。必ず問題が増えるのです。犬を飼うか飼わないかは自分で決めればいいことです。飼わなかったらそれなりに寂しいかもしれないし、飼ったら犬の面倒に縛られなくてはいけないし。人生って、そんなものです。何にせよ、やって良いのか悪いのか、よくわからないのが人生です。
自分の行為に責任を持つ生き方
たとえば一人暮らしのひとが、犬を飼える住宅に住んでいたとします。いざ犬を飼って一人と一匹になると、自分はどこにも出かけられなくなるでしょう。一日も家を空けられなくなってしまって、大変です。一日家を空けるとなって、一日分のエサと水を用意したところで、犬はそれをどんなふうに食べるかわからない。時々、器に入れたエサは全部食べてしまって、取り置きのエサまで自分で探して食べてしまうこともあります。そういうわけで、私が出かけたら犬の面倒は誰がみるのか、ペットシッターに頼めばエサや散歩は問題ないなとか、犬を預かってくれるワンちゃんホテルがあるなとか、あれこれと段取りしなくてはいけなくなります。ホテルに預ければ外出はできますが、そのホテルが丁寧に犬を扱ってくれるのかはわからない。ケージに閉じ込めて、エサをあげるだけかもしれない。そうなると、犬にとっては最悪で、ホテルどころではありませんね。
以上のように、どんなことをやっても良いところもあれば、問題も避けられないと理解して、バカにならないで生きてほしいのです。騙されないで生きてほしい。別な言葉で言えば、自己責任ですね。問題が起きても、それは自分の行為の結果だから責任を持ちます、という生き方です。世間では、そういう気構えで生きなくてはいけないと思います。
無知な人間は悪なのか?
「人間はいつか死ぬ」という智慧を持たない人、いわゆる無知な人間は、悪だと思いますか?
無知の結果に注目しましょう
誰かを「悪人だ」と、うかつに判断をしないほうがいいでしょう。特定の誰かが悪いのではなく、無知こそが自然の流れなのです。どんな生命も基本的に無知です。無知ゆえに輪廻転生していて、無知ゆえに私たちもこうして生まれてきたのです。かといって、無知を言い訳にしている場合ではありません。結果から見れば、無知が悪い結果を出すのは明らかです。ならば、無知をなくそうと努力するべきなのです。「必ず死ななくてはいけない」と確認するのも、無知をなくすための大切なステップです。死を認識することで、無知というガラスにひびが入るのです。
智慧を教えることは可能か?
私が誰かに「智慧」を教えることはできるでしょうか?
まず自分で試してみること
自分に智慧があれば、他人にも教えられます。自分に無いものは教える、というのは成り立たない話です。たとえば、「あなたはフランス語を教えられますか?」と訊いたら、おそらく教えられないと答えるでしょう。なぜならば、あなた自身がフランス語を知らないし、理解できないからです。
気をつけて理解してください。まず、自分自身に智慧が現れるように頑張ってみることです。自分に智慧が現れてくると、その影響は強烈なのです。周囲の人々や仲間にも自動的に智慧の芽が現れてきます。智慧にはそれだけの力があるのです。自分自身に智慧が現れることで、周りも助かります。自分が幸福になるだけではなく、周りもすごく穏やかな気分になるのです。お釈迦さまは、「まず自分が実践してください。それから人に教えてください。そうしないと社会があなたをバカにします」と仰っています。
私自身はこのように仏教を実践して、すごく心穏やかになったのだ、というならば問題ありません。たとえば、フランスに渡航経験のない人が、「フランスって素晴らしい国ですよ」と吹聴したら、コイツなに言ってるんだとバカにされるだけです。自分がフランス旅行をして、ここが素晴らしかったのでぜひ一度行ってほしいと勧めたり、どんな旅行会社がおすすめで、観光地以外にもどんな隠れた名所があるとか、時差がどれくらいとか、そういう情報ならば教えてあげられるし、相手の役に立つでしょう。
もっと卑近なたとえでいえば、私が料理の仕方を教えるような感じです。私は料理ができません。たまに作ったりもしますが、自分でも食べられたものではない。そういうわけで、まず自分で試して、良い結果があるならば友だちにも教えてあげる、という順番でやってみてください。
怒りに対抗する唯一の方法
最近、電車のなかで怒っている人を見かけることが多くて、「あの人かわいそうだな、怒らないでいればもっと楽に生きられるのに」と感じます。自分は、怒ってはいけない、自我をなくすと決めて生きるほうが楽なのだ、と思っています。しかし、世間・社会ではみな「自分(自我)」を主張して生きています。そこで、自分が社会から攻撃されたとき、「私は自我がありません」という態度で果たして対抗できるのかどうか、知りたいと思いました。いかがでしょうか?
「怒らないこと」は二つの幸福を作る
世間や社会が怒って攻撃してきたとき、唯一とるべき抵抗の方法は、「怒らないこと」なのです。怒らないことで、ものの見事に勝利を得られます。それだけではなく、相手にも幸せを与えることになるのです。お釈迦さまは「怒った人に怒り返さない人は、二つの幸せを作る」とおっしゃっています。二つの幸福とは、①自分の幸福、②相手の幸福です。怒らないことで、怒りをぶつけてきた人、怒っていた世間の怒りも消えるのです。怒る人に対して逆に怒り返さない人は、相手に幸せを与える人間です。怒らないことはたいへん尊い行為なのです。
世間がみんな団結して怒ることはまずないですが、たまに誰かが私に対して怒ったとしても、その人に対して怒り返さずに慈しみで対応するのです。実践方法は「相手が怒ったとしても私は怒りません」というだけです。ただそれだけで、偉大なる行ないをしているのです。自分自身で幸福を感じるだけではなく、他人も助けてあげているのです。素晴らしい善行為です。頑張ってみてください。
妄想の遮断は何のため?
冥想していて、ちょっと油断して妄想が立ち上がったとき、その妄想に関連して沸々といろんな妄想が現れて、心の中が制圧されそうになります。この妄想に対して、どう対処すればよいでしょうか?
妄想するカラクリを暴く
私たちは各自でいろいろと柔軟に工夫して、修行中にあらわれる妄想の流れを遮断しなくてはいけないのです。妄想とは連続して流れるものです。仏教用語では、「暴流」「激流」とも言います。ひとつ妄想が現れたら、次から次に流れ出してしまう性質なのです。修行中はとにかく、妄想を遮断しなくてはいけません。いくら遮断しても妄想は現れますから、「遮断する」能力をどんどん上げていかなくてはいけないのです。いかに早く妄想を遮断できるのか、ということが、冥想が上手になったという目安になります。
妄想を遮断できる能力が上がってくると、「なぜ妄想するのか?」というカラクリも見えてくると思います。一応、答えも出しますが、まず自我の錯覚があるのです。そして自我の錯覚から思考・妄想・感情といった煩悩が現れます。それらの煩悩によってストレスが溜まっていくのです。自我の錯覚があるからこそ、落ち着かない、納得いかないことがいっぱい出てくるのです。あるいは、納得いったならば、それに執着してしまう。そのような原因で思考・妄想・感情が現れてきます。そこで、もし妄想しないでいられるならば、妄想が現れるカラクリを調べる余裕がこころに出てくるのです。 今は妄想しない瞬間はないから、妄想をすぐに遮断することに専念するのです。遮断していくと、調べる能力が自動的に現れてきます。



