「アホ」・「馬鹿」という言葉
仏陀の教えも真実に近いと考え、日頃大乗・上座部仏典なども読ませていただいております。
「HPからの Q&A31(神々について)を読んで、若干感じたことがありました。
うろ覚えで恐縮ですが、たしか仏陀は、「正しい言葉を使いなさい。やさしく、適切で、他者を害さない言葉遣いをしなさい」と説かれていたかと思います。
一方、今回のQ&Aでは、長老のお答えの中に「アホ」あるいは「馬鹿」などといった言葉が散見され、あくまで私個人の印象ですが、お答え全体に何か非常に攻撃的な印象を受けました。
私は、仏陀自身、物腰言葉遣いを含め、非常に円満な、優しい方(もちろん真実に対しては限りなく峻厳な)であったと考えております。
仏陀に帰依する者としては、やはりそういった円満さも見習うべきなのではないでしょうか。
アホではございません。
ご感想を感謝いたします。(正直に)。色々未熟なところに気づかせていただいております。皆様方の慈悲深い指摘に沿って自分の行動を正そうと努力を致します。∞まで訂正~訂正~と致しますが決して完成へは至らないことでしょう。
表現については、私の個人的な信仰かもしれませんが、「この世で仏陀の言葉以外完全な表現がない」と思っているのです。
私の言葉は不完全で、だらしなくて、刺ばかりで、仏陀には迷惑だと知っています。もし、私の未熟な表現のせいで、嫌な気持ちになったことがあるならば、それは完全に私の誤りです。
仏陀の教えは世界の皆に解放されているものなので、皆様方は私の言葉をゴミにして仏陀の言葉を勉強なさってください。私は、唯、その仏陀の言葉を(私なりに)正直に現代日本語で外人なまりで喋っているだけです。知っている日本語もテレビ語だけです。
日本の生活は長いが、皆様方と一緒に生活したことはないのです。アジア人なので、嫌がれることは痛いほど知っていますが、(これは完全無視)それよりも、わたしは「完全孤独主義」です。知識人の、インテリの生の日本語を知り得ることも出来ない状態で生きています。したがって、読む人の受け取り方は想像できませんので、すべての誤りに対してお詫びを申し上げます。まことに、すみませんでした。これから確実に起るあやまりにも謝ります。
本題:
> 「仏陀に帰依する者としては、やはりそういった円満さも見習うべきなのではないでしょうか。」
全くその道理です。努力いたします。いいわけになるのは承知の上で申し上げさせていただきますが、気持ちとしてはすべての生命に対して「尊い」と言う気持ちをもってはいますが、どうも自分の行動と気持ちは一致しないことは多いようです。
わざと、失言を犯しても失礼な気持ちは自分にはないと、自分勝手に思っているが、ことばと言うものは、理解する相手がいて成り立つもので、それを厳密に考慮しない私が、「アホ」でしかないものでもないのです。
指摘なさったQ&A31(神々について)というところに「神はアホとちがいますか」とわざと書き下ろしました。しかし、ちゃんと断りも書いたつもりです。「これは現代的に言えばこんな感じだようと」。ですから、わたしにとってそれほどシーリアスな発表ではなく、ただの、シャレで、冗談でした。読み直して見ましたが、指摘後も激しさも、非難的な感じも、攻撃的なところも感じませんでした。(攻撃にたいしてですが。私は仏教徒で、絶対的な神を信じません。アホというどころではなく私にとっては「神」は存在もしません。アホといって間違ったと思います。「アホ」やといわれる人も存在するからね。仏教徒は自分は信じないことを皆に言っておいたほうがいいと思います。その思考を攻撃してもしょうがないと思います。他を攻撃したら後でひどい目にあうことは確かですが。「自業自得」。同じくキリスト教の人は仏教を批判しても何も悪くはないのです。)
シャレで言ったことはシャレとして聞き取れなかった。それは完全に私の間違いです。客を笑わせない漫才師みたいですね。自信がなくなってきました。
しかし、神々に対して聞かれた質問に答えてその問題の文書については「無礼な、攻撃的なことがあったと」絶対認めません。自分にはそのような気持ちは全くなかった。笑いながら、論点を理解してもらいたかっただけです。
愚か者という言葉に対して:
これは仏教の用語でどうにもならない、これを使わずに語れないと私は説明したことは何回もありました。Paṭipadāというつまらない我々の月刊誌の巻頭文に以前、連続して「愚か者」というタイトルで何回もこれについて書いたのです。
愚か者という言葉は固いから、私は意図的に「アホ」、「馬鹿」と言うことばを使っています。私の個人的な感覚では仲良しの間で交わす「可愛い」言葉です。私にも他人から言われるときがあります。そのときは機嫌が悪くなるどころか、舞い上がって笑うのです。ストレスも消えてしまうのです。
さらに、愚か者という言葉を使うと聞いている方々は「これは昔の何々さんの話で、私には関係ございません」と言う気持ちで受け取りますので、せっかくの説法の意味は無視されます。「アホ」か「馬鹿」という言葉を使うと自分にも言われたような気もするのです。それで、仏説は他人事でなくなって、生きた教えになるのです。
「愚か者」の起源:
これは仏教用語です。キリスト教、イスラム教などでは自分達が説く絶対的な唯一神を信じない、否定する人々に対してどのような言葉を使っているか私より、何倍も知識が広い皆様方がご存知ことだと思います。
どちらかというと「野蛮人、pagan、悪魔の類、ケモノ、裁かれるもの、永遠な地獄で燃える運命のもの」など使って言うのではないでしょうか。Unbelieversといわれるとかなりの差別用語です。文明人扱いもしない感覚(ニュアンス)です。強いて言えば処分してもしょうがない存在です。さらに、不信仰者を「敵」扱いもするのです。皆に道を語ろうとする宗教の世界で必ず現れる副産物です。
仏教はこの問題をどうにか解決しようとしたのです。
「敵」はいません。すべてが衆生です。平等です。
しかし、各自の行為によって善果も悪果も得られると語るのです。
そこで、仏教の目的である悟り、解脱、心の平安、苦しみの終末、汚れの滅尽をまだ体験してない人に対して「無知、愚か者」などの言葉を使っています。どんな言葉を使うかということは、その文書の、詩のことばの並び替えによって決まるのです。
無常を観察しようとしない人が愚か者です。まだ観察してない人も愚か者です。観察はするが、汚れを落とせない人も愚か者です。
結局は悟ってない人が愚か者です。解脱しているかないかの問題です。
仏教は信仰しただけですべては解決と言う宗教ではないのです。
ですから、 believers, unbelievers のような枠で語れないのです。「賢者、解脱者」といえるのは修行の後の話になります。
ですから、例え仏教徒であろうとも「無知、愚か者、無明」のレッテルは貼るのです。
これは「がんばれ!」と言う意味でございます。激励の言葉でございます。応援の言葉でございます。皆の本来の能力を理解した上で、それを認めた上で語ることばです。これこそ、円満な、温厚な、円滑な愛にあふれた言葉です。
「アホ」は嫌だと思っても言語に使い方というものはあります。
「アホです」というのは正しいと思っています。
「尊いアホ様方、尊いお馬鹿様方」と言っても日本語的に正しければそのように使わせていただきます。
もし、どなたか悟ってない人を示すためにより優れた、完全な言葉をご存じであるならば、教えて下さい。お願いします。
人間に対して「人間だ」というのは差別用語、攻撃的な言葉ではないのです。これは動物差別でも、動物虐待でもないのです。
悟りは智慧だからいまだそこまで進んでない人が非知、非慧か無知、無慧かです。非を使うと絶望的だから、無を使うのです。慧がなければ、慧を得られればよいのです。
Sumanasaraという外人が日本の方々に「馬鹿」と言うと犯罪になります。悟ってない私も「愚か者の、無知の、アホの」仲間ですが、教台に立って仏陀の教えを他に説明するときは自分勝手に、人の機嫌を取る企みで教えを捻じ曲げてはならないと思っています。仏陀が語った時のニュアンスまで、皆様方に何とか再現して上げようと私は努力しています。
私の話、演技は合っているかないかを調べてみることは常識なのに、「釈迦尊を尊敬する者」や、「仏教に興味を持つ者」や出てきて「お前は路上で生活してないから比丘ではありません、自炊して贅沢に食べているのだから何者のつもりか?などの教示も来るのです。私は死なない程度でコンビニの弁当を買って一日一食の生活していますが、それも見たこともない誰かに大変な経済的な負担だそうです。(注:この二番目の意見はご本人様がForumに投稿をなさらなかったのです。個人的に送られたのでこちらでも投稿できません。)(脱線、脱線…止めよう)
ですから、関西のまねをして「アホ」などの言葉を使っていますが、表面で理解してしまっても、どうしようもないことでしょうが、仏教思想体系上、別な裏付けがあることも理解していただければありがたく感謝いたします。
三宝のご加護がありますように。