新年祝福法要についての質問
HP新年祝福法要の写真集で、長老方が花を持って合掌しているのは何か意味があるのでしょうか?
また、その花は特別な花なんでしょうか?
読経や法要の際には特別な座り方、例えば正座などをする必要があるんでしょうか?
> HP新年祝福法要の写真集で、長老方が花を持って合掌しているのは何か意味があるのでしょうか?
> また、その花は特別な花なんでしょうか?
これは新しい仏像の「開眼法要」と言う行事の写真でした。「開眼法要」と言う言葉は日本の仏教行事からできているもので、同じ言葉を使ってもテーラワーダでは違うことをする可能性もあります。
テーラワーダの習慣を説明いたします。
新しく作られた仏像に目を入れる法事があります。
テーラワーダで使う言葉は「法事」ではなく「良い行い」と言う意味のpāli語の単語です。「善行、善行為、徳行、徳行為、善業、善業事」などの訳は出来ますが、これらのすべての用語が日本語として格好悪いことばになります。ですから、法事という言葉にしたのですが、結局は行うこと自体が、日本の法事に似ていたり、似ていなかったりです。似ていないことのほうが多いようですが。
そこで「入眼善行事」(??)(開眼法要ですが)の場合は仏師が人に見えないように密かに行うものです。信者の方々と、出家が仏像の回りや、その建物全体を取り囲んでお経を唱えたりするのです。かなり派手なお祭りです。この眼を描く行事は「こんどの休日」にやりましょうと決めるものではないのです。昔からの伝統に則って吉日時を計算して、時分まで決めるのです。秒も計算しますが、日本と違って、厳密に正確な電波時計などはないので、秒は無視。仏師は眼を描き終た後、人と顔を合わせないうちに祝福をしてもらうのです。
その後、吉時分に仏像が皆に見えるように幕を開けるのです。
それでその仏像の前での、お釈迦さまに対する最初のお供え物や、お布施などをします。(スリランカの習慣では水を一滴も使わずに、牛乳でご飯を炊きます。お供えする花はジャスミンと蓮華です。ミャンマーやタイの習慣はわかりません。)
この前の新年祝福法要の時行ったのは、2番目の幕開け法事です。休日の空いている時間を強引に吉時分だとしたのは私です。
幕開け法事は、厳密にミャンマーのしきたりに則って行ったのです。
その時は出家者たちが、定められている座り方で仏像の前に花を持って座り、お釈迦さまに礼拝をして、経典をいくつか合誦します。
お釈迦様が菩提樹の下で悟りをひらいて、そのまま3回にわたって悟りの内容を観察したのです。その時は輪廻の原因たる因果法則の循環と解脱に導く因果の逆順も観察したのです。悟った喜びを3回にわたって偈のかたちであらわされました。合誦するのはこれらの経典です。
お釈迦様が悟りを開かれたことに思いを馳せて、悟られたからこそ、仏陀が一切の生命の尊敬に値するようになったことを再確認する行事でしょう。それから皆で、お釈迦さまのかわりにこの新しい仏像に礼をするのです。
> 読経や法要の際には特別な座り方、例えば正座などをする必要があるんでしょうか?
在家の方々の場合は、「失礼にならないように座れ」ということになっているのです。
出家の場合は、各法要に複雑で様々なしきたりがあります。写真で見えたのは、出家がサンガとして法事を行うときの座り方です。ミャンマーとタイとスリランカで、それぞれ座り方に少々の違いがありますが、大筋は同じです。社会から逸脱している出家の座り方などは、出家以外の一般の方々にはまったく関係ございませんので、気にする必要はないと思います。
Sumanasara
>(スリランカの習慣では水を一滴も使わずに、牛乳でご飯を炊きます。…)
これは、牛乳でなくココナツミルクではないでしょうか?
こちら↓を参考にしました
http://www.d7.dion.ne.jp/~tomoca/curry/recipe/recipe17_kiri_bath.htm
http://www.ucs.mun.ca/~v53ash/milkr.html
おいしい料理の作る方は私の専門以外のことです。スリランカ風の料理にチャレンジしたいと思う「怖いもの知らず」がおるならば、ご紹介なさったHPは役に立つと思います。「こんなもHPもあるの?」と私も初めて知りました。
祝福法要の説明で、「開眼供養」のスリランカ習慣を少々、ついでに書いただけのことです。
開眼供養のときのお釈迦様に対して行うお布施供養と、今現代のスリランカ人の日常の食習慣は違います。
布施供養の場合は、仏教徒が何をモデルにしますか?
お釈迦様が悟りを開く前日、Sujātā(スジャーター)婦人から頂いたpāyāsa(パーヤーサ)をモデルにするのです。
パーヤーサとは仏教は現れる以前からもあった習慣で、神様にお食事を供養するとき使うことばで、普通に「食事」と言う意味です。神様の変わりにバラモン聖職者に布施をするときも食事にパーヤーサと言います。(お相撲さんの食事にちゃんこといいます。お相撲さんの料理は何でもちゃんこと呼ぶべきところいつのまにか「ちゃんこ鍋」と言う一つの料理になったようで…)
当時のインドでは供養をするとき二つの概念がありました。
一つはご利益系です。権力、財産云々を期待すると生贄でもしたのです。
二つ目は「聖」を期待して供養することです(聖系)。この場合は肉、血などの汚れたもの(死体)は使わないのです。色々な食料を使ったと思いますが必ず米と牛乳が主役を演じたのです。(料理の方法は勝手でやってきたのではないかと私は思います。)
Pāli注釈書に菩薩釈迦尊に差し上げた料理作り方まで書いてあるのです。(本当かないかはべつとして。)
先ず雌の子牛を選んで大事に育てる。初の子牛を生んだところで乳絞りをするのです。そのミルクで料理をするのです。召使の助けを求めないで、全て布施主が自分で行うのです。薪は栴檀。新しい場所で火を立てて、新しい釜で炊くのです。このエピソードの場合は金の鉢をつかったそうです。上も周りも布で囲んで「汚れが」入らんように気をつける。施主が側からはなれません。炊き上がったご飯は釜のままで蓋をして頭の上に載せてもっていって神様に供養をするのです。このエピソードの場合は木下に座っていた菩薩釈迦尊に差し上げたのです。施主も沐浴をして、新しい服を着てこの行事を行うのです。
以上、お釈迦様にスジャーター婦人が差し上げたパーヤーサの作り方の簡単な説明でした。
(米は清らかな水で洗いますが、ご飯を炊くとき使いません。牛乳のみです。一番難しいのは火加減です。一時も離れず、火加減を調整しなくてはならないのです。)
スリランカの仏教徒はその真似でパーヤーサを作るのです。
テキスト通りでは全くないが、出来る範囲でやるのです。釜は新しいものを使います。素焼きのものですからあまりにも安くて何個でも買える。薪は普通の木、布で囲むこともしません。新米を使います。炊くときは、牛乳のみを使います。初お産の牛のミルクではなく普通の牛乳を使います。炊き上がったら器の外をきれいに拭いて白い布で巻いてお釈迦様の所へ持っていって器のままで差し上げます。もしも器が汚れ過ぎだと思ったら別な皿に入れ替えますが、そうならないようにはがんばります。
開眼供養のとき、またWesak祭りの時このパーヤーサ供養をするのです。ですから、わたしが前、書いたのは「頭軽重腹」(-この言葉の意味の説明は断ります)の現代スリランカ人のキリバト(milk rice)の説明ではないのです。伝統があるお寺の仏教徒達が行う習慣なのです。
テーラワーダ仏教協会が行う法要などはミャンマー式で行いますので、心配する必要はない。
唯、豆知識として書いただけです。忘れてください。