智慧の扉

2008年8月号

無知の繁栄は成長の終焉

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「忙しい」という言葉があります。これは落ち着きを失って、興奮した状態、集中力のない状態、はっきりものごとを理解できない状態です。「忙しい」人は、ものを知る能力を失っているのです。これはたいへん危険な状態です。

仏教の言葉に翻訳するならば、「無知」ということです。ですから、私たちが口癖にしている「忙しい」は決してかっこいい言葉ではありません。「無知」という病気の兆候をあらわすヤバい言葉なのです。

無知は悪行為の中で一番たちが悪いのです。怒るのは、無知だからです。欲張るのも、無知だからです。他のさまざまな罪を裏で手引きしている犯人は、無知なのです。

無知があるというのは、「成長は終わった」ということです。成長が終わっても変化は続きます。成長のない変化とは、どういうことでしょうか。例えば人間の身体はずっと止まることなく変わっています。二十五、六歳までは成長している。しかし、四十歳を過ぎて、五十、六十代になると、退化するのです。どんどん壊れていって、歩けなくなったり立てなくなったりする。成長なく変化するというのは、「退化する」ことなのです。

身体と違って、心の成長にはリミットがありません。年齢とは無関係に、心は想像できないくらい、成長できるのです。しかし心に無知が入ると、その時点から成長はゼロです。それでも心が変化することは止まらないので、どんどん堕落して、心は人間のレベルから退化してしまうのです。

我々は本当に「忙しい」のでしょうか。本当に時間がないのでしょうか。「忙しい」という口癖を疑ってみるところから、無知を破る挑戦が始まります。