智慧の扉

2009年9月号

自灯明・法灯明

アルボムッレ・スマナサーラ長老

ブッダが説かれた「自灯明・法灯明」は、同義語です。仏教では、自分=法です。我々が修行するとき、修行の宿題とは何なのでしょうか。それは生きている自分です。自分とは「生きている」というシステムです。ブッダの「法」とは、この「生きている」システムの説明のことです。だから、法=自分なのです。

執着から苦しみが生まれることはどこで研究するのかといえば、「自分」です。同時に「執着から苦しみが生まれる」というのは普遍的な「法」なのです。渇愛でひどい目にあっているのは自分ですから。そういうわけで、自灯明、法灯明は道義語です。

この言葉は革命的な教えなのです。「自灯明、法灯明」の一言で、ブッダは一切の宗教・信仰の世界を捨てているのです。宗教の世界とは、全知全能の神や如来、永遠の魂、聖地、グル、そういった何か絶対的な存在に頼るものです。でも、私たちが悟りに達するためには、何もいりません。この身体に、すべてが揃っています。悟りに必要な宿題はすべて、条件も何もかも。他の何にも、頼る必要はないのです。

悟りに達するとは、「生きることは苦しみである」と発見することでしょう(苦聖諦)。私たちは「いま・ここ」に生きています。宿題は自分ですから、場所は関係ない。だから、頼る・依存するということははじめから成り立たない。私たちは「いい言葉だなぁ」と感心するだけなのですが、お釈迦様は驚くべきことを語っているのです。

世界にある、あった、これから現れるすべての宗教・信仰を粉々にしてしまう真理の言葉。それが「自灯明・法灯明」なのです。