2017年7月号
自他の壁を乗り越える「慈悲の見方」
人間であれ、神々であれ、犬や猫であれ、どんな生命も、それぞれ「自分」という衣装を着て、個としての存在を誇示しています。まるで歌舞伎のようです。歌舞伎の舞台では、おなじ役者が衣装を着替えて、大名になったり、武士になったり、商人になったりするでしょう。「慈悲の見方」とは、そのような表面的な衣装を外して、一切を「生命」として観察する見方なのです。それぞれの役柄ではなく、生命同士としてコミュニケーションを取ること。それが慈悲の冥想によって目指す境地なのです。
たとえば、「あの人が見えますか?」と訊かれて、「はい、見えます」と答えるとアウトです。まだ「人」という衣装でしか観えていません。言葉でいうと難しいですが、人という衣装ではなく、生命として観る訓練をするのです。そうやって、自他の壁を乗り越えなくてはならないのです。
慈悲を実践し始める時点で、自我意識があるのは当たり前です。「わたし」という孤立した殻があるところからはじめるのです。一人ひとりが、どうすれば心が広くなるのかを発見しながら、冥想を進めた方がいいのです。そのために、冥想で使う言葉の意味をよく理解して、感じてみることです。「私は幸せでありますように」と念じるとき、幸せな自分をシミュレーションして実感してみる。それから、その実感を「私の親しい生命が幸せでありますように」と、他の生命にも拡げて投影してみるのです。
言葉を使って念じる冥想だけではなく、生きるうえでの慈悲の実践も欠かせません。私たちは常に他の生命と接触して生きています。人間社会のなかでも、いろいろな人間と会います。そこで、どんな人間に出会ったとしても、慈悲の角度で、生命として観る訓練をするのです。自分とは違う人間だ、というふうには見ないで、自分と同じ苦を避けたがっている生命、必死で頑張って生きようしている生命、皆それぞれに欠かせない仕事をしている生命として、観察してみるのです。そのように生命に共通する普遍性を感じて、「生きとし生けるものが幸せでありますように」というモットーで生活することです。
このように、一人ひとりが慈悲の実践方法を発見しつつ、慈悲の心を育てていってください。仏教では、慈悲を実践するための基本フォーマットを紹介しています。それを各自で工夫して、自分のものにして欲しいのです。