智慧の扉

2017年9月号

雨安居の真髄(ゴータミー精舎雨安居入り法要でのお話)

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 お釈迦さまの時代、「解脱」という言葉だけは知られていました。しかし、実際に解脱に達した人は誰もいなかったのです。人類で初めて、真理を覚って解脱に達したお釈迦さまは、解脱などあり得ないとされていた世界の常識に挑戦して、解脱の経験者を次々と輩出していったのです。

 当時のインド社会にあって、生きることの疑問に突き当たった人々を選んで、見極めて教えることで、即座に解脱へと導いたのです。お釈迦さまの活動によって、一流の知識人から、教育の機会もない奴隷まで真理を覚り、解脱することは一般常識と思われるくらいになりました。伝道をはじめて二十年くらい経つと、「誰にでもやればできる」「努力すれば、誰だって覚れるんだ」というところまで、インド社会の雰囲気が変わったのです。結果として、誰でも出家するようになりました。

 それまでは、資格・素質のある人々を選んで法を説いたので、戒律は必要なかったのです。しかし、凡夫の出家者が増えるとサンガにさまざまな問題が起きるようになって、どんどん戒律が増えてしまったのです。雨安居の決まりもその一つです。

 当時、仏教の修行者たちはジャイナ教の人々と一緒の場所に生活していて、互いの教えを批判しながらも調和していた。雨季に仏弟子が動き回ると、非殺生を徹底するジャイナ教徒は「足元にいる虫たちを踏み潰してしまうではないか」と見ていられない。そこで彼らに配慮して、仏教のサンガも雨安居に入るようになりました。

 三ヶ月間、一箇所にいるということ自体には、別に大きな意味はありません。しかし、凡夫をたくさん含む集団になったサンガにとって、雨安居期間は徹底的に修行に励む良い機会になったのです。

 反省(reflection, retrospection)という単語がありますね。一般的には、自分のしてしまった過ちを顧みることですが、特に過ちの無い人が「反省」する場合はどうすればいいのでしょうか? その人は、「自分自身を見る」ということをするのです。これが仏道修行です。自分自身・自分の命を反省する、振り返って見ることで、解脱に達するのです。

 それを気づきの実践といってもいいし、ヴィパッサナー瞑想といってもいいし、反省の修行といってもいい。雨安居の期間、徹底して自己反省するのです。現代のテーラワーダ仏教では、そのポイントは忘れられているかも知れません。面白いことに禅宗では、雨安居の期間に、接心といって徹底的に坐禅する習慣があるのですね。

 皆さんも、いずれ呆けて終わるようなワンパターンな生き方を破って、一日に三十分でも一時間でも、自分自身を反省する、自己観察する時間をもったならば、素晴らしく幸せになることでしょう。それが、お釈迦さまの説かれた雨安居の真髄だと思います。