智慧の扉

2018年1月号

「疑」とはなにか?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「疑(ぎ)」とはなんでしょうか?

 どんな人間でも何かを知っています。その知っている範囲によって世界は変わってきます。しかし、私たちが知っている知識や事実や真理と言われるものは絶対的ではありません。だから、すべての生命は「完全には納得がいかない」という状態にあるのです。どんな知識にせよ、事実にせよ、真理と言われるものにせよ、生きる上で完全には納得できないのです。次々に、新しいことを知るのですが、何一つ確実ではない。これが「疑」の正体です。私たちはそれを実感していないけれど、しかし、ずっとその状態にある。この「疑」という一語は、仏教心理学による独自の発見なのです。

 どんな生命も知り尽くしていない。ということは、いつでも不安が隠れているのです。この不安は潜在的に働いていて、表に出てくると問題となります。つまり、私たちは常にあらゆる精神病の保菌者(キャリア)なのです。この不安がバックグラウンドで影響を与え、それなりの悪影響も及ぼしています。疑こそが不安のおおもとなのです。これは一般的にいう「うたがい」「疑問」の次元ではありません。調べてわかる俗世間的な疑ならば大したことではないし、それで精神的におかしくなる必要はありません。徹底的に調べようともしないで、「信じなさい」と言われて鵜呑みにすることは、仏道ではむしろ失格者を意味します。

 しかし、何を学ぼうが調べようが常に疑はあるのです。いつまで経っても知り尽くしたことにはなりません。人間は眼耳鼻舌身意を使って認識しています。その認識過程で、必然的に疑が生まれてしまうのです。だから、仏教では世俗の学問・知識は相手にすらしません。疑のある世界では、争い・戦い・論争・悩み・落ち込みが絶えない。調和や平和、安定など、とうてい成り立たないのです。

 この「疑」の問題は一切の存在、生命に関係しています。生命が認識して何かを知る場合、また思考する場合はすべて、有(う)か無(む)かという両極端に陥ってしまうのです。生命は何を認識したとしても、この両極端からは抜けられません。このジレンマを破って、疑を滅尽することが覚りの境地です。すべての現象は原因によって生じ滅することを観察によって自ら発見し、有・無に縛られたあらゆる概念を捨て去る。それが疑の滅尽であり、覚りの境地なのです。