2019年10月号
各自で証すべき真理
正覚者の説かれた真理の教え(法)には、六つの特色があると説かれます。その中のひとつに「賢者たちによって各自で覚られるべき」(Paccattaṃ veditabbo viññūhī〔パッチャッタン ヴェーディタッボー ヴィンニューヒー〕)というフレーズが出てきます。賢者というのは、理性がある人という意味です。パーリ語で「viññū〔ヴィンニュー〕」と言います。
理性とは、感情・主観・先入観・好み・信仰・伝統・文化・価値観などで心を汚すことなく、データに基づいて客観的に観察して知ることです。これは訓練すれば育てられます。色メガネを外してみるのです。仏教を理解するためには、どうしても理性が必要です。理性は、他人と売り買いすることはできません。誰かが与えてくれるものでもありません。
つまり真理の教えは、理性を使って学び、理解して実践することによって、自分自身で教えを立証できるのです。具体的には、自分の理性を使って、内と外の現象を観察します。各々がブッダの教えを学び、導きとして、自ら観察することで真理を発見し、解脱に達するのです。仏教は苦しみをなくす教えですが、自分の苦しみをなくせるのは自分だけです。他人が食事をしたからといって、自分の空腹は消えないことと同じです。私の代わりにトイレに行って下さい、と頼んでも尿意が消えないことと同じです。苦しんでいる悩んでいるのは私だから、私の心が汚れているから、各自で各自が認識している現象を観察し、真理を発見して、解脱に達するべきなのです。
この特色をネガティブに受け取るのは間違いです。例えば、弁当を配るとします。もし弁当の数に限りがあるならば、欲しい人は引換券をもらって交換することになってしまいます。引換券を貰えなかった人は、弁当からあぶれます。しかし、弁当の数に限りがないならば、望む人全員の弁当が用意されているとしたらどうでしょう? 一人ひとりに、弁当を食べる機会があるということになります。
それと同じように、ブッダの教えを学んで解脱に達する人数に制限はないのです。皆に覚れる可能性があります。理性ある人間ならば、誰もが究極の幸福である解脱に達することができるのです。解脱に達すれば、そこに上下という縦の関係はありません。水に水を足しても区別できないのと同じです。仏道に入ったら、各自で聖なる道を進むのです。真理の教えが伝わっていく限り、この特色は有効です。