智慧の扉

2020年9月号

聖なる戒律とは何か?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 戒律とは、三点において清らかでなければいけないと釈尊は説きます。その三点とは何でしょうか? 「不殺生戒」を例にするならば、①自分自身が殺生から離れていること、②殺生から離れるように他者にも勧められること、③殺生から離れるのは良いことで、素晴らしい教えであり、これが道徳だと自信・確信を持っていることです。いわゆる、不殺生の宣伝者になるという意味です。
 
 自分自身は殺生から離れている、他者には不殺生を勧められないと言ったなら、それは立派な戒律実践とは言えません。お釈迦様が推薦しているレベルに達していないことになる。厳しく言えば、見せかけ・偽物の戒律ということです。戒律は、ブランドのカバンや服ではありません。偽物のブランド品でも素人には見分けがつかないものです。不殺生という戒律においても、三点において清らかでなければ本物とは言えないのです。

 不殺生の他にも、「与えられていないものを取らない(不偸盗)」「不倫をしない(不邪淫)」という身体の戒律、「嘘をつかない(不妄語)」「仲違いさせる言葉を使わない(不両舌)」「人格を傷つける目的で批難・侮辱の言葉を使わない(不悪口)」「無駄話をしない(不綺語)」という言葉の戒律においても、それぞれ三点で清らかなレベルにまで向上しなくてはいけません。
 
 このように戒律を完全に守れると、心はサマーディ(統一)状態になると説かれています。しかし、仏教を知っている人もほとんどは、未だに戒律の項目・形式を守っているに過ぎません。形式だけでは戒律を完全に守ることはできないのです。人間には理性がないので、規則の本を開いて「殺生するなかれ」という表面的な項目だけを必死になって守ろうとしています。これでは、釈尊が戒律に期待した効果は薄いのです。
 
 形式的な戒律は、完全に守ることができません。釈尊が説く「聖なる戒律(ariya sīla アリヤ シーラ)」は完全に守ることができます。なぜならば、理性に基づいた戒律は人格(性格)が変わることを意味しているからです。戒律を守ることで正知を得、邪見を捨て心が変化した人格者になることだと教えているのです。完成した人格が消えること、堕落することはありません。戒律を聖なる戒律に変えることができるならば、心は簡単にサマーディに達するのです。覚りを目指す人々を必ず解脱へ導きます。釈尊が説く戒律は、形式的な儀式ではなく、智慧を開く鍵なのです。