智慧の扉

2022年5月号(187)

「存在の罠」に気づく

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 生き続けたい。死にたくはない。それはすべての生命の願望です。しかし、生命は必ず死ぬのです。生命の願望は、決して実らないことになります。人間の場合、自分がやがて死ぬことはなんとなく知っているのです。生きている時はその事実を忘れて活動しますが、ちょっとした出来事で恐怖感が起きてしまいます。この恐怖感は、忘れようとしている「死」なる現実によって現れます。自分の死を気にしない人がいるとするならば、その人には恐怖という感情が消えます。

「生きていたい」という気持ちは渇愛です。生きることに必死になるのは、生きること自体が不安で、いつ壊れるのかわからないからです。安定した存在はありません。それから、生きることも大変で終わりのない仕事になります。人々は、安定した生活と、幸福に生きることを必死に願っているのです。すでにあるものならば、願う必要はないでしょう。人生は不安です。苦で成り立っています。それが現実なのに、この現実を否定したいという気持ちを皆、抱いているのです。否定したからと言って、現実が無くなるわけではありません。結果として、終わりのない戦いが現れます。安定した生き方を目指す。幸福を求める。しかし、現実に気づいてしまう。また、その現実を否定する。再び、安定した生き方を目指す。このようにして、終わりのない苦の連続が起きてしまうのです。

 私たちは大なり小なり、騙されているのではないでしょうか? 騙されているからこそ、必死に努力して生きようとしているのです。何もしないでいることも、耐え難い苦しみです。何かをして何かを得たからといって、苦しみは消えません。人々はいろいろな目的を作って、それを目指して努力します。それが叶ったならば、楽しくなるのです。学問に挑戦してそれが実っても、豊かになることに挑戦してそれが成功しても、生きることは苦であって疲れることは根本的な働きです。それだけは変わりません。だから、私たちは騙されて、生きることに必死に戦うはめになっているのです。人がこの世で何をして生きていても、いろいろなことに成功しても、努力が実ろうが実るまいが、生老病死は避けられない。人生のゴールはいつでも「死」なのに、生きることに強烈に執着しているのです。

 心に渇愛があるから、人は騙されて当てにならない目的をつくり、それに挑戦して生きようとするのです。この世で何を得ようとも、すべてを捨てて人は逝くのです。渇愛は、「何としてでも生き続けろ」という衝動を掻き立てます。「人生は楽しいのだ。今は苦であっても先には楽があるのだ」という錯覚を惹き起こします。人は渇愛に騙されて生き続け、輪廻転生までするのです。