2022年7月号(190)
十種の束縛を打ち破る「感覚の観察」
お釈迦様はある経典で、感覚の観察方法についてこのように説かれました。
感覚は、苦・楽・不苦不楽の三つがあります。感覚に対して、どのようなアプローチをするべきでしょうか? 「良い(楽)」と感じる感覚は、楽だと観察するのではなく、定義を変えて「これは苦である」と観察するのです。食事の観察について教えるとき、皆さんに「おいしいご飯」というものはない、と説明します。食事の観察では、実況中継の言葉として「おいしい」ではなく「味わう」と観察するよう指導します。
例えば「おいしい」と感じるのは、空腹という苦がなければ、そう感じません。そこでわかるのは、ご飯という物質が必ずおいしいと感じさせるものではなく、実際にはこの身体に空腹(不足・不満)という苦があるということなのです。苦がなければ「おいしい」という幻覚(感覚)は起こり得ない。もしご飯という物質においしいという性質があるなら、いついかなるときに食べたとしてもおいしいと感じるはずです。
「感覚の楽を感じたら〈これは苦である〉と観察しなさい」と聞くと、皆さんはヘンに思うことでしょう。当然です。これがわかるためには智慧が必要です。そのように感覚が観察できれば、楽の奴隷になることはありません。
次に苦の感覚が生まれたら、「これは矢である」と観察するのです。これもヘンだと思うでしょう。今どんな感覚であったとしても、次に苦の感覚が生じることがあります。例えば毒矢が刺さったような感じです。矢が刺さったことも苦しいし、矢を引き抜くことも苦しい、矢を刺さったままにすることも苦しい。どうしても苦です。
例えば火傷したら痛くなります。瞬間的にでも身体に火が触れたら、火傷します。火から離れればすぐ痛みが消えるのかというと、そうではありません。火傷した患部は、ずっと痛みを感じることになります。瞬間、火に触れただけですが、苦は数日続くことになる。楽の感覚は瞬間で終わってしまうのに、苦の感覚は長持ちします。ですから、苦の感覚は「これは矢である」と観察するのです。そうすれば苦の奴隷になることはありません。
不苦不楽の感覚は、どのように観察するべきでしょうか? 不苦不楽の感覚は「これは無常である」と観察するのです。不苦不楽は持続することなく、瞬時に別な感覚に変化してしまいます。
三つの感覚をこのように観察できたならば、その人は、聖なる道の人であり、正知の人であり、渇愛を断ち切った人であり、十種類の束縛を破った人であり、正しく慢をなくした人であり、苦しみを終焉させた人となるのです。これはお釈迦様によって説かれた感覚の観察方法です。