智慧の扉

2022年7月号(191)

慈悲の瞑想はなぜ嫌われるのか

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 お釈迦様は慈悲の生き方・考え方・生活習慣を、あらゆる方法で語りました。慈悲は仏教の全てではありませんが、根幹の一部です。「生きとし生けるものが幸せでありますように」というこの一文が、私たちを真に守るものだと納得して実行するならば、人類に何も問題は起こらないのです。

 もし誰かが慈悲に対してケチをつけるなら、私は厳しく対応せざるを得ません。なぜなら、この世の中の生命が守られるために、慈悲を実践する以外に方法がないからです。慈悲の瞑想は宗教や信仰は関係ありません。どんな神を信じていても、人は一貫して幸せを求めているのです。

 宗教に関わりを持たない若い方々が、慈悲の瞑想の文言に違和感を持つ場合があります。流行の歌は口ずさむのに慈悲の瞑想は「ちょっとキモい」と言うなら、私は「では慈悲の瞑想の意味を反対にして唱えてみてください」と提案します。反対の言葉は「私が不幸になりますように」「生きとし生けるものが不幸になりますように」でしょう。そのように言うと相手は慈悲の瞑想の内容を途端に理解するのです。誰だって「私や他の生命を不幸にしてやろう」と願っているわけではありません。

 人間には根本的に、思考に欠陥があります。そこでお釈迦様がその思考パターンを解析して、「〈私〉という自我意識のせいで問題が起こるのだ」と指摘しました。

 私たちは「私」という主語で物事を考え、自分だけの世界に引きこもり、他を敵とみなします。敵を目の前にしたら、人は相手を潰そうとするか、排他的になるかどちらかなので、人間の思考システムは攻撃的または排他的なのです。自分の仲間か敵かと、常に周りの人間を選別しています。

 私たちは「自分の方が優れている」と主張するためにあらゆる方法を駆使します。しかしいくら他文化・他政党などを批判しても問題は消えません。そこでお釈迦様が「自分の心をチェックして、自分が作っている壁を全て取り払ってください。大きな人間になってください。壁の中に引きこもった小さな人間ではなくて、大気に溶け込んでみてください。あらゆる問題が全て消えますよ」というメッセージを、さまざまな言葉で語っているのです。

「私がいる」という実感がある限り、人は他と仲良くすることができません。私たちは自我という錯覚で思考して判断を誤ります。人間は考えて行動する生命だからこそ、間違った行いをするのです。人はもともと同じグループの中で噛みつき合う生命体なのです。生命同士が仲良くするということは高度な真理の道です。したがって、慈悲の瞑想は難しくなっています。真理を発見しない限り生命は、「我は正しくて相手が間違っている」という苦しみの世界を生きることになるのです。