智慧の扉

2022年9月号(194)

奴隷化システムを破る

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 みなさんは気づいていないかもしれませんが、仏教的に見ると、人間の生き方は家畜動物とたいして変わりがないのです。私たちは家畜と同じく、安穏におだやかに自由に生きることは不可能になっています。誰かに言われるがまま生きる人生です。家畜よりも悪いことに、人間は同じ人間に飼われて、奴隷にされて、他人の指図で動かされています。具体的には、会社や国などの組織に管理されて、自由を奪われているのです。「あなたの意志はどうでもいいのだから言う通りにしなさいよ」というのが人間の世界です。

 その事実になぜ気づかないのでしょうか? 洗脳されているからです。人類社会が発展しても、情報化の時代になっても、洗脳システムはそのまま更新されているのです。今まで社会システムが幾度となく改革されてきましたが、人間が同じ人間を奴隷にするということが、いつの時代も続いてきました。

 人が簡単に奴隷になってきたのは、私たちに何か問題があったからです。私たちにはハンディがあります。それを仏教用語で「存在欲」と言います。私たちが「何のために生きているのか?」と自問する答えを、お釈迦様が発見したのです。「それはあなたの存在欲のためでしょう」と。存在欲が鎖となって自分を縛っているのです。では「生きていきたい」という存在欲とは一体何なのでしょうか?

 例えば、奴隷が鎖で手足を繋がれるとき、もし鎖が鉄ではなく柔らかいティッシュだったら簡単に逃げ出せます。捕まって再び繋がれても、紙の鎖ならまた破り捨てるだけです。存在欲がこのティッシュの鎖のようならば、人が奴隷になることはないでしょう。存在欲とは心の働きです。物理的には、ティッシュほどの硬さもありません。それにも関わらず、存在欲は強化された鉄の鎖のように頑丈で、断ち切ることが困難なのです。しかも、存在欲は他人が挿入した感情ではなく、一人ひとりが自分の意志で作って、守っているものです。

 かつての時代は人を捕獲して、無理やり奴隷にしました。当然、奴隷たちは自分の人生が苦に満ちていると知っていたのです。仏教的に考える奴隷制度は、逆です。自分自身が持つ存在欲を生かして、世にある人や物に執着して、みずから進んで奴隷になっているのです。

 そういうわけで、自由になりたいと思うならば、それも自分自身で行わなくてはいけないのです。自分で作った存在欲の鎖を、みずから切断してみるのです。自分の存在欲を無くす仕事を、他人に代わってもらうことはできません。存在欲のせいで私たちは物に執着しています。しかし、物にとって私たちの執着は必要なものではないのです。私がお金に執着するのです。お金のほうから私に執着するわけではありません。理性ある人々は、みじめな奴隷人生からの脱出を願います。執着を離れることにみずから挑戦して、自由への道を踏み出すのです。