パティパダー巻頭法話

No.315(2021年6月号)

宗教装束

衣装はこころを清めない Sacred ornaments are meaningless

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

  1. Anikkasāvo kāsāvaṃ,
    yo vatthaṃ paridahissati;
    Apeto damasaccena,
    na so kāsāvamarahati

  • けがれた汚物(kāsāva)を除いていないのに、
    黄色の法衣(kāsāva)をまとおうと欲する人は、
    自制が無く真実も無いのであるから、
    黄色の法衣にふさわしくない。
  1. Yo ca vantakasāvassa,
    sīlesu susamāhito;
    Upeto damasaccena,
    sa ve kāsāvamarahati.
  • 一〇
    けがれた汚物を除いていて(vantakasāva)、
    戒律をまもることに専念している人は、
    自制と真実とをそなえているから、
    黄色の法衣(kāsāva)をまとうのにふさわしい。
  • 和訳:中村元『ブッダの 真理のことば 感興のことば』岩波文庫より※()内にパーリ語を補った。

信仰の特色

信仰は宗教にとって欠かせない条件です。宗教は人間に確かめることが決してできない概念について語っています。だから、話を聞く人々はその教えを信じなくてはいけないのです。人間は如何にして創造されたのか、人間は誰の教えに従って生活するべきか、死後はどうなるのか、などについて宗教が語ります。どんな人間も病と死を恐れるので、その恐怖に対して、宗教がさまざまな提案を出すのです。祈りによって病を治すことや、神の恩恵を受けて死後永遠になることを約束します。具体的に調べることができない概念ばかり語られるので、人はとりあえず話を信じることにするのです。

選民

一部宗教の特色として、「自分たちは創造主のお気に入りの人間である」「神の選民である」と語って、人間のあいだで権威を誇示するケースがあります。選民であると名乗る人々は、宗教の儀式を行ったり、悪魔祓い・祈祷を行なったりします。死後の安全を確保する儀式もあります。それから、何かの修行をおこなって、一般常識と違った生活習慣を営んで、その結果、神から特別な力をいただいた、と語る宗教家もいるのです。彼らの権威の源泉は、自分が行なった修行です。修行はそれぞれの国々の文化によっても変わります。基本的には、一般人にとってやりづらいものでなくてはいけません。一般人から尊敬を受ける可能性のある行為が、修行ということになるのです。

宗教的装飾

宗教家は一般人の服装と違った装束を身にまとうのです。宗教装束は、長い歴史と幅広い文化を持っています。宗教グッズは原始時代からありました。宗教装束を身にまとい、神を自分の身体に降ろして人々の問題を解決してあげる習慣もあれば、宗教グッズそのものに霊的な力があると信じる場合もあります。それから、神の力が特別に働くパワースポット、聖地があると信じることもふつうです。さらに、一般人が仰ぎ見る豪華な建築物をたてて、その場所をセンターにして神が人間に働きかけるのだとする信仰もあります。

人がいるところに宗教がある

人間として生きることは、たいへんな戦いです。他の生命のように、生まれて子孫をつくって死ぬか、殺されて誰かに食べられるか、という単純なパターンは人間に適用できません。人間は考える動物です。あえて希望・願望をつくるのです。その希望・願望と、現実の流れは一致しないものです。にもかかわらず、願望は限りなく増えていきます。自然は一定の法則によって流れるだけです。ですから、実現できる願望よりも、失望に終わる願望のほうがあまりにも多くなるのです。失望することは精神的に苦しいことです。人間には考える能力があるから、「死んだらどうなるのか?」とも思考するのです。すべての生命は死を恐れますが、死んでからどうなるのかは考えません。そういうわけで、先祖である猿に宗教はないけれど、人間には宗教があるのです。

宗教組織がどんな嘘をついても、どんな事実無根の話をしても、人々を騙したり脅したりしても、人々を支配したり搾取したりしても、人間は相変わらず宗教が好きなのです。ひとつの宗教がダメなら、別な宗教に移る、または、お気に入りの宗教をつくるのです。既成の宗教から分かれて、新宗派をつくる場合もあります。お気に入りの宗教が見つからない、あるいはつくれない人々は「無宗教だ」と自称して、特定の信仰する宗教が無い、という恥ずかしさを隠すのです。人間の生き方は悩みと苦の連続なので、人がいる限り、宗教が出現する恐れは消えません。

人気と尊敬を目指して

信仰をしてもしなくても、人々は真っ向から宗教を非難・侮辱することはしません。人々は遺伝的に宗教家を信じ、尊敬し、敬意を払うのです。とにかく、一般人よりは何かしら大目に見てもらえます。ということは、一般人として生活するよりは、聖職者になるほうが何かしら便利なのです。人気があること、尊敬されること、仰ぎ見られることは、決して悪くない待遇です。もっとも、自称しただけでは聖職者と認めてくれません。そこには、誰もやりたがらない「修行」という通過儀礼があります。ただし、一般人が認めるならば、「神の言葉が聞こえる」「自分に神のお告げがくだされた」「人々に恵みを与える聖なる力が授けられた」などの話をして、宗教の通過儀礼をパスすることともできます。

聖職者にも悩みがある

トラブルだらけの生活を送るのは一般人だけではありません。文化と科学の発展によって、人々は古くから伝わってきた信仰を調べてみることにしました。その結果、病に罹ったら教会ではなく病院に行くようになったのです。「神のお告げを受ける人々には精神的な問題がある」と分析する人々もいます。そうなると、聖職者も必死で戦わなくてはいけない。神の存在を立証するために、あらゆる工夫をするはめになります。宗教哲学、宗教理論が構築され、護教論者たちが名乗りをあげて、宗教家を養成する神学校まで開かれます。宗教の世界も俗世間と同じく、生き残るために必死で争う苦しい世界になったのです。現代では、一般人も聖職者も苦しい世界に生きています。生存のために競争しなくてはいけないから、一般人を救う余裕などないのです。

なぜ悩むの?

病気になること、老いること、必ず死ぬことが自然の流れです。避けて通ることはできません。であるならば、悩む必要はないでしょう。しかし、人間は老病死を無くしたいと思っているのです。商売するならば、必ず儲けたいし、競争には必ず勝ちたい。自分の希望どおりに生きたいのです。これらひとつも、人間の計画どおりになるものではありません。だから、悩んで落ち込む結果になるのです。たとえで考えればわかりやすいです。ある日、Aさんには出かける用事があるのに、突然の豪雨に見舞われてしまう。そこで、Aさんは雨に止んでもらうためにあらゆる工夫をする。でも、雨は雨の勝手で振り続けますから、Aさんの希望には反応しません。Aさんは「大失敗した」と落ち込むはめになります。人がやるべきなのは別のアプローチです。雨が降っているのは不便ですが、とりあえず傘をさして出かけるのです。傘がなければ、雨に濡れてでもでかけて、さっさと自分の用事を済まることです。この雨の例を使えば、理性のある人と理性がない人の区別ができるでしょう。結論は簡単です。なぜ人は悩むのでしょうか? 理性がないからです。

無知

老病死を嫌がること、無くそうとすることは、無知です。「死後、永遠の天国に迎えられる」と期待することは無知です。「人間は誰か超越した存在によって管理されているのだ」と信じることも無知です。実現できる範囲を超えて、希望・願望をつくること、計画をたてることも無知です。自分の命は自分のものだと思うことも無知です。命は命の法則によって流れるものであって、変えることはできません。「自分の命は他人に支配されているのだ、他人のものなのだ」と思うことも無知です。欲・嫉妬・怒り・恨み・憎しみ・悲しみに押しつぶされることも無知です。要するに、人のこころが汚れているのです。人がやるべきことは、宗教を探すことではありません。こころの汚れを落とすことです。

智慧

気に入らないことがあると、人は怒ります。気に入らないと思ったのは、自分に願望があったからです。「世は自分の願望・希望どおりに流れるものではない」という事実を発見することは、智慧が顕れることです。智慧がある人は、怒りません。その人にとって、気に入る現象も、気に入らない現象もないのです。あるのは因果法則によって流れる現象のみです。さらに観察すると、自分も自分ではなく因縁によって流れる現象であることを発見する智慧が顕れます。要するに、特定の自分も消えます。その人に、悩みも一切消えます。悩み苦しみを超えた状態を、仏教では「解脱」と名づけています。解脱とは、ある神秘的な、宗教的な、特定の境地ではないのです。無知を破ることです。こころの汚れを無くすことです。病気になりたくはない、長生きしたい、死を避けたい、願望を実現したい、死後、永遠になりたい、などの幻覚を抱くと、無数の束縛が生まれます。宗教の釣り餌を飲み込むことになります。あるいは、俗世間が言うとおりに生きることになります。無知を破ったら、こころが安穏に達するので、誰のお世話にもなる必要はありません。もう束縛がないからです。

宗教役者

無知な俗世間は宗教家を尊敬します。聖職者に頼ります。聖職者を養います。商売をしなくても、宗教組織は儲かります。そこで人々は、宗教の衣装をまとって、宗教的な道具を身に着けて、修行者を演じるのです。楽な生活を狙う詐欺師もいるが、自分の宗教が正しいと信じ込んで真面目に演じる宗教役者もいます。いくら宗教を信仰したからといって、こころの汚れはなくなりません。特別な苦行を実践しても、こころの汚れはなくなりません。宗教組織も縦の関係なので、位が上がると衣装も変わります。試験に合格して、高い位の衣装をまとう資格を取っても、こころの汚れはなくなりません。

インド文化では、俗世間を脱出して、宗教世界に入って修行する人々がいるのです。自分が修行者であることを示すために、渋色の簡単な服をまとうのです。それも最小限に。しかし、何かの教えを信仰しているならば、「魂は永遠なり」と信じているならば、「死後、永遠の境地に達したい」と思っているならば、問題は一般人と同じです。こころが汚れているのです。希望・願望があるのです。他宗教と競争しなくてはいけないのです。それなら、悩み苦しみを超越することはできなくなります。王様の衣装をまとい、舞台・劇場で王様役を演じても王にはなりません。本物の王は、どんな服を着ていても王なのです。たとえ庶民と同じ服装をしても、王は王です。ですから、こころの汚れを落とさない人、無知を破って智慧を発見するために精進しない人は、宗教装束をまとってもその衣装にふさわしくない人間だと、お釈迦さまが説かれるのです。

真の宗教者

こころの汚れを無くした人は、苦しみを超越しています。悩み苦しみがないのです。こころに汚れがないので、道徳を犯すことはありません。「道徳を守らなくてはいけない」という気負いすらないのです。なぜならば、こころが清らかだからです。嘘をつく気持ちがある人には、嘘をつかないこと(不妄語)が道徳です。殺意がある人には、不殺生が道徳です。こころが安穏に達したならば、その人には善も悪も存在しないのです。俗世間的な、また相対的な命名をするならば、「道徳の完成者」です。その人は宗教の衣装をまとっていても、てきとうに手に入れたどんな服をまとっていても、聖者なのです。王様のたとえに戻りましょう。王様が農民の服装で田畑を耕していても、王なのです。しかし、王様にしかまとう権利がない王の衣装、また王冠と王笏などで身を飾ることは、本物の王様にしかできません。というわけで、こころの汚れを落とした人にこそ、渋色の宗教装束を身にまとう権利があるのです。こころの汚れを落とす気持ちがない修行者たちは、みな宗教役者に過ぎません。

今回のポイント

  • 宗教の親は死の恐怖です
  • 宗教は老病死に答えを探しています
  • 希望・願望をつくるこころには悩み苦しみがある
  • 無知なこころが汚れるのです
  • こころの汚れを落とさない行者は宗教役者です
  • こころ清らかな人は宗教装束にふさわしいのです