パティパダー巻頭法話

No.317(2021年8月号)

進化する成功

ライバルは自分自身のこころ Diligence guides to success

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

2. Appamādavaggo
第二章 不放逸

  1. Uṭṭhānavato satimato
    Sucikammassa nisammakārino
    Saññatassa dhammajīvino
    Appamattassa yasobhivaḍḍhati
  • 奮起すること、気づきあること
    清らかな行為、慎重であること
    自制を保ち、善い人間であること
    不放逸に励む人の成功が高まる
  • スマナサーラ長老・訳

成功への道

失敗したいと思う人はいません。誰もが人生に成功したいと願うからこそ、「成功への道」を教える方法は世界一の人気商品になっているのです。「成功とは何か?」と訊くと、人はそれぞれの定義を持ち出してきます。人間が皆、同じことを成功だと理解しているわけではないのです。成功とは、多種多様の意味を持っていて、それゆえに成功に達する方法を教える商品もたくさんあるのです。一番多く見られるのは、富豪になる方法です。それから、管理者になる方法、リーダーになる方法、政治家になる方法、健康で長生きする方法などもあります。テーマを「こころ」に変えてみると、明るく生きる方法、悩みをなくす方法、自己啓発の方法などが見られます。宗教という文化は、成功への道というテーマを専門的に教える分野です。この世での成功ならば他の人々も語っていますが、宗教文化は「あの世で成功に達する方法」について自信満々に語るところが特色なのです。

自分の道を決められない

あまりにもたくさんのテキストがありますから、自分に合う方法を決めるのは難しい作業です。成功への道を学んでみると、「やってみても良い」と思われるものも、「この方法はやりたくない」と思われるものも、「いくらなんでもこれは自分には実行できない」と思われるものもあります。それから、ある時代でうまく行った方法が、現代では通じない場合もあります。現在、成功に達している人々のケーススタディをしてみたところで、自分自身には適用できないと見えてくるのです。


どこかに自分特有の成功の道があるはずですが、それを発見することができずに、みな困っているのです。人は成功への道を探し求めて、やがて疲れ果てて、「なんとか生きていられればいい」というところに落ち着くことになります。まれな人間だけが、世間的に成功します。多数派の人々は成功者にも失敗者にもならず、日々がんばってなんとか生きているのです。「成功への道は天の恵みだ」と言うならば、不公平で残酷な話です。人類に共通する成功への道があれば有り難いのです。その道について、これから説明していきます。

定義の問題

まず、「成功とは何か?」と自分が生きている環境から推測することから始めましょう。それならば、ほとんど具体的な概念にとどまるので、実現するのもそれほど難しくないのです。しかし、日本で生まれた人が大富豪になったアメリカ人の伝記を読んで自分の成功を定義しようとすると、それはただの希望・夢だけに終わるかも知れません。人は自分にどれくらい能力があるのか知りません。しかし、人の能力が無限ではないことは確かです。人の能力には限りがあります。成功の目的は、その能力範囲に収めなくてはいけないのです。要するに、「豊かになりたい」と思うのは構わないが、それは世界長者番付の一位になることではない、ということです。人は何を目指しても良いけれど、成功の定義についてはよく注意しなくてはいけないのです。

あなた個人の宿題

これから、お釈迦さまの教えから「成功への道」の一部を説明していきます。先に述べたように、成功とは何かと、まず自分で決めなくてはいけません。それは、観念ではなく具体的で実践可能なものではなくてダメです。自分が生まれ育った環境と教育、知識人のアドバイスなどから、自分自身の成功の定義を決めなくてはいけないのです。それから、その成功を目指して努力するのは、自分ひとりの仕事になるのです。誰かが与えてくれる恵みは、自分の成功にはなりません。たとえば父親が、自分で創業した会社の社長だとします。その父親が次期社長として息子か娘を認定しても、それはその息子・娘の成功にはならないのです。成功とは、どうしても自分自身の努力で達するべきものです。その目的に達するために他の人々の協力も必要だというならば、適任者を自分の仲間にすることも自分自身の仕事なのです。成功とは自分の努力の結果であって、天の恵みではありません。

奮起

成功に達したいと思う人は、それに適した道を歩まなくてはいけないのです。しかし、それは赤い絨毯が敷かれた道ではありません。先へ進むのが難しい道なのです。他人が道に障害を置いているわけではなくて、問題は自分のこころにあるのです。こころとは本来、怠け者です。無知と感情によって支配されているから、何もしないまま自分の妄想の世界に閉じ籠もったままでいたいのです。つまり、成功を邪魔しているのは、自分自身のこころなのです。しかし、「成功したい」と思ったのも自分のこころです。 人はこの矛盾を理解するべきです。このくだりは重大なポイントです。忘れたら人生に失敗します。

ここで述べた矛盾を乗り越えるために、お釈迦さまが〈uṭṭhānaウッターナ、こころを奮い立たせること〉を推薦します。〈奮起〉は憶えやすい言葉でしょう。

一日何回、怠けが割り込むかわかりません。時には、二、三分ごとに怠けが割り込むこともあります。だからこそ、奮起というアドバイスを強烈な御守のように念頭に置いておくのです。「仕事が難しい、仕事が面白くない、身体がダルい、体調が悪い、やる気が起きない」などなどの言い訳があるでしょう。それで言い訳に、その他の誘惑に、怠けに負けることなく、自分の道を歩むのです。それが奮起ということです。

気づき

成功する、目的に達する、希望を実現する、などなどのフレーズは、自己破壊のウイルスに汚染されているのです。これはほとんどの人類が知らないことです。「成功しよう、勝利を得よう、必勝の信念」などのスローガンをうかつに使ってはいけないのです。それらは危険なウイルスに感染しています。どういうことなのか説明しましょう。これは「時間」の問題なのです。現実と観念の差である、とも言えます。人間には、過去・現在・未来という三つの時間概念があります。しかし、過去は終わったもので実在しません。未来は観念・推測だけで実在しません。つまり、三つに分けられる時間なんかは存在しないのです。あるのは、時間ではなく「時」だけです。

この「時」とは、今の現実的な瞬間のことです。何かをやるとするならば、あなたには今の瞬間しかないのです。しかし、人は過去のことを考えたり、未来のことを想像したりして、「時」を無駄にしてしまうのです。今の瞬間で何かをやっていることは確かです。しかし残念ながら、それは妄想にふけることです。ということは、成果はゼロです。人は夢で御馳走を食べているが、それは決して身体の栄養になりません。自己破壊のウイルスと言ったのは、この問題です。人は時間という罠にかかって、生産性ゼロの生き方をしているのです。それで成功に達するでしょうかね?

お釈迦さまの答えは、〈気づき〉です。Satiサティとも言います。成功に達する人は、今現在おこなっていることに注意するのです。過去に、未来に、こころが逃げ込むことを戒めるのです。今の瞬間でやるべきことを行なう人は、過去と未来という観念に束縛されることがなくなります。その人は有意義な道を歩んでいるのです。成功が確かな道を歩んでいるのです。

清らかな行ない(浄行)

人は今の瞬間に気をつけて、過去・未来の束縛から解放されて活動するだけで安全でしょうか? 成功に達するのでしょうか? そうとも言えないのです。精密に気をつけて強盗を行なうことも、精密に気をつけて殺人を行なうこともできます。その行為に成功しても、人生には成功していないのです。成功者ではなく、失敗者なのです。ですから、瞬間・瞬間の行為であっても、それが清らかな行為でなければいけません。現在の行為の結果は、未来を形成します。未来が「犯罪者・悪人」であるならば、その人は成功への道を反対方向に進んだことになります。そういうわけで、行為は必ず〈sucikammaスチカンマ、清らかな行為〉でなければいけません。

それほど難しいことではありません。人の行為は三つです。考える、話す、身体を動かす。〈清らかな行為〉とは、感情の衝動で考えないこと、話さないこと、身体を動かさないことです。もう一つの方法は、「自分の幸福のために、親しい人々の幸福のために、他の生命の幸福のために」という意をもって、身口意の行為をおこなうことです。

慎重

気づきとは、「今の瞬間でやるべきことを行なう」という意味です。その行為が清らかな行為であれば、なおさら良いのです。これで完璧のように見えますが、もう一つ考えなくてはいけないポイントがあります。それは「やるべきこと」を見極めることです。現代ではシミュレーションという言葉がよく使われています。何かの計画を本番で実行する前に、うまく行くか行かないかをシミュレーションしてみるのです。新開発のワクチンを人に打つ前に、シミュレーションで治験を行ないます。ボランティアの被験者に注射して経過を調べることなどです。芸術の世界では、本番の前にリハーサルするのです。シミュレーションは失敗しないために必要です。なぜならば、科学・医学世界でも将来はわからないものです。シミュレーション・リハーサルは、失敗しないための大事な習慣です。

医者をたとえとして使います。患者の症状を調べて、病因を診断します。それに適した治療を考えます。それから、患者さんの症状・体調・年齢などに合わせて、施すべき治療を行ないます。決して、Xという病気に治療はYだからと、無条件に推薦することはしないのです。仏教的に言えば、因果の流れをシミュレーションすることです。これは〈nisammakārīニサンマカーリー〉と言います。今の瞬間で、「やるべきこと」をこのように判断するのです。感情的に判断しないで、〈慎重〉に判断することです。ものごとは、決して「ただやればいい」わけではないのです。因果の流れがどうなるのかと考える、慎重さが必要です。

自制

成功の道は、奮起・気づき・清らかな行ない・慎重であることの四つで完成します。しかし、念のために気をつけなくてはいけないポイントがあります。人は成功を目指して二十四時間、精進するわけではないのです。家族の面倒を見たり、友人たちと時間を過ごしたり、休んだりもします。その時、奮起・気づきなどは実行しないのです。落ち着いて、楽しんでいる時間です。その時であっても、間違ったことをしたら、批判・非難を受けることをしたら、罪を犯したら、人生はダメになります。成功の道は壊れます。ここで〈saññataサンニャタ、自制〉が助けになります。休んでいる時でも、遊んでいる時でも、みだりな行為をしないということです。言葉を換えて言うと、自分の人生に批判・非難を受けるべき隙間・穴が無いように気をつけることです。

如法に生きる

仏教徒の場合、〈如法に生きる〉とは「ブッダの教えに従って生活すること」です。生活の仕方についてのブッダの教えは、とても合理的でシンプルなのです。仏教以外の世界でも、「正しい生き方」について色々語られます。親・師匠・先輩・知識人も、それぞれ正しい生き方について語ります。その方々は完璧な人格者ではないので、言っていることが完璧に正しくはないかも知れません。親のしつけは完璧ではないのです。しかし、親の躾を無視するものではありません。みな、親・師匠などの短所だけ取り上げて、躾を無視したり親を批判したりして、勝手に生活しようとしがちです。それは間違いです。

別の問題もあります。我々は、親が完璧でないにも関わらず、親に言われたとおりに生きようとします。知識人が完璧でないのに、知識人に言われたとおりに生きようとします。その場合は、文字通りにやるわけではなく、自分自身の判断も使うのです。時間と場所の関係も考えなくてはいけません。それを考えない人々は、原理主義者になるのです。原理主義は世間から批判されます。原理主義者は罪を犯すのです。原理主義者は、その大事な教えにとっても迷惑な存在です。親の躾であっても、文字通りに実行することは親にとって迷惑なのです。世間はその人だけではなく、親のことまで批判するようになるのです。

お釈迦さまは完全に語られるので、お釈迦さまの躾ならば、そのまま実行すれば良いのだと言えます。そのお釈迦さまの教えにしても、自分の判断と時空関係を考慮する必要があります。


いずれにせよ、我々には何らかのガイドラインが必要なのです。それがブッダの教えであるならば有り難いことですが、従う人は少なく、反対する人のほうが多いのです。では、まとめてみましょう。〈Dhammajīvīダンマジーヴィー〉とは、善い人間になることです。成功への道を歩む人に、これも必要な条件になります。

不放逸

不放逸は〈appamādaアッパマーダ〉と言います。それは、お釈迦さまの最期の言葉でもあります。要するに、幸福への道をこの言葉に集約しているのです。気づきを実践することも、〈不放逸〉と言います。今まで説明してきた、奮起・気づき・清らかな行ない・慎重・自制・如法に生きるという全てをまとめると、「不放逸に生きること」になります。不放逸は人をこの世で成功に導きます。一切の苦しみを乗り越えて、解脱に達するまで人を導きます。不放逸の人に、不幸は一切、起きないのです。

成功に達する

「不放逸を実践する人の名声が高まるappamattassaアッパマッタッサ yasobhivaḍḍhatiヤソービワッダティ」のです。〈Yasaヤサ〉という言葉の意味は、名声に限ったものではありません。人が期待する財産・知識など、他のものも入ります。「成功」という単語はたくさんの意味を持っているのだと先に書きました。ここでyasaというのは、一般的に言う成功なのです。「成功が高まる」というフレーズは、日本語には馴染まないようです。しかし、成功とは多種多様・多次元のものだとするならば、やはり「成功が高まる」のです。不放逸を実行する人の成功が高まるのです。どこまで高まるのでしょうか?その人が諦めたところまでです。お釈迦さまは、「少々の成功で満足してはいけない」という言葉も語られたことがあります。「これ以上、達する成功はない」と分かるところまで、不放逸を実行するのです。成功に達する道は、これで終了します。それは個人が決めた小さな成功から、最大の成功(解脱)に達するまでの道なのです。

今回のポイント

  • 成功は多種多様・多次元です
  • 個は自分に実現できる成功を考えます
  • 成功に達しない原因はこころにあります
  • 小さな成功から大きな成功へと進むべきです