No.4(1995年6月)
悪魔に勝つために①
自分は美しい人間か
元来人間の精神は脆弱であると言いきっても差し支えないとおもいます。「もっと良い人間になりたい」「自分というものを高次に磨いていきたい」「崇高な目的に向かって邁進したい」などと言いますが、その大半は夢に終わります。「清浄無垢な心、怒りという感情を抛擲した心」を願って釈迦尊の教えを実践するときでも、自分では匍匐前進しているつもりでも実際は後退してしまうときが多く見られます。これを仏教では「悪魔に屈伏する」と讐えています。悪魔と呼称しても、仏教では「清冽なる心を作る、悟りを開きたい」とする努力をスポイルする存在としての本人の心 —— 本人の生きかたを指しています。
人間 —— 個を努力心や清浄心から逸脱させていく元凶ともいうべきこの心のうちに巣喰う“脆弱なる心”を惹起し、生育してしまう遠因はいったい奈辺に潜んでいるのでしょう。あなたはいま自分のからだを穢いと思っていますか? 汚濁のような肉体の持ち主と考えていますか? 答えはいずれも否のはずです。自分の肉体や精神を汚辱にまみれたなどとは考えないはずですし、それどころか自分の肉体ほど、精神ほど純白無比な存在はないとさえおもっているはずです。「自分の身体を清浄なすばらしいものだとおもってそれに捉われ、また感覚器官を意のままに楽しませたり、食べものにおいても適度を知らず、怠けるのは好きで、努力は嫌いな人を悪魔(煩悩)が征服することはあたかも風が弱い木を倒すが如く」と言ったのは釈迦尊です。( Dhammapada No.7)
「自分の身体が、精神が清浄ですばらしいものと誇ってどこが悪いのだ」こんな反発があちこちから間こえてきそうです。人は、いや人間の心というものは、美しいもの楽しいものを手放したくない、そういうものに激しい執着心を抱きます。その辺のことをもう少し詳細に分析しましょう。
身体がもともと清浄で美しいことが真理であれば、これはもう何も問題はないわけですが、残念ながらそうではありません。身体が清浄であるとおもう心は第一に自分だけが素晴らしい存在としてある、自分だけをよくしたいという自我の意識が生まれ、必然として自他の区別がここに生じてきます。そこから高慢なる心が芽生え、排他的な人間を形成していきます。また、身体に執着するあまり身体の快楽に志向がいき、快楽の次元を超越できない人間への道を歩むことにもなってしまいます。若い女性たちのあいだで最近潔癖症という症候が流行って? いるそうですが、綺麗なからだに執着を持つと、その綺麗なからだを守ることにこだわり、いつまでも若く健康で強靭なからだでいることを望んでしまいます。その挙げ句、少しでもからだが衰えたり、顔に皺が一本増えるごとにつらく苦しい思いを味わうことになってしまいます。これでは毎日がからだだけに執着しそのことだけに捉らわれて虚しく人生を終わらせてしまうのがオチです。
からだが清浄だという思いこみがあるかぎり、自分に対する妄想や苦しみ、悩みは増量される一方で、からだが清浄だと思いこむ人ほどまた、快楽に執着し異性に対する想念も倍加します。肉体の快楽をいつも求めてしまう人はまず自分のからだがどれほど清浄なのか、その点をよく考えてみることが必要です。また自分のからだだけは清浄だと思っている人は、他人に対しての嫌悪感が芽生えてきて、そのことに対する苦しみもありますから、以下のことをよく考えてください。
身体は穢いものです。それは事実です。その証拠にあなたは毎日のように入浴をするでしょう。
一週間ほどからだも顔も洗わず、歯も磨かず、下着もそのままにしていたらどうなるでしょう。結果は想像できますね。人間はみなおいしいものを食べます。しかし、おいしいと思ったその食品も口に入った途端汚いものに変化していきます。ちなみに、自分の大好物な食べものをひと口噛んだあともう一度手のひらに戻しその大好物だった食品をよく観察してみてください。それからその一度噛んだ食品をもう一度口のなかに戻してみましょう。ちょっと常識ではできませんね。実際それをやらずとも想像するだけでも試してみる自信のある人などいないはずです。
咳、痰、膿、尿、便、汗、鼻くそ、耳垢をはじめ、胃や腸など内臓など自分のものでないかぎり他人を不快にするものばかり人間一人一人が所有しているのです。さらに言えば、口から入ったものは内臓を下に行けば行くほど不浄なものに変わってしまい最後は大便として排出されてしまいます。人間の肉体はまさに不浄の塊、不浄の工場といった観があります。
ところで、不浄随観は仏教の瞑想法のひとつです。からだが清浄なものとおもっている妄想概念を越えて、からだが不浄であるという事実をふかく観じることができると、まず快楽を求めるからだに対する煩悩が消滅しはじめます。高慢で自我中心的の間違いだらけの生き方に気づき、心が清澄になり、日頃の悩み、苦しみ、不安といった汚れた心がなくなっていきます。
こうなると、もう安心です。心ははじめて真の安らぎを感じられるようになり、さらには、完全で清浄なる、人間本来の真の本体が輝きはじめ、すばらしい精神世界を目指して励む心にも、縦横な確信が湧出して身についてきます。もう、どんな悪魔にも負けることかありません。(註・感覚器官の制御、食べものの適度、怠惰と精進等この項次号に続く(Daha㎜apada Nos.7-8参照)
私たちは自分自身に対してこう考えてみましょう。
- 自分の身体を客観的にありのままに観察してみましょう。
- すべての人は自分の身体を清浄だと思っていますが、他人の身体は自分にとっておなじように清浄だと思えますか?
- 自分の身体が清浄だというのは単なる思いこみで根拠がなく、自己愛から生まれたものです。(時として、恋人や自分の子供を見て、きれいだ、清浄だと思うのもまた自己愛から生まれた感情にすぎません。)
- 「身体が清浄だ」という感情を「身体は実は不浄である」という真理観に置きかえてみましょう。
- 「世の人が清浄という感覚を不浄である」「不浄だと思うものに対してそうではない」と見ることが、感情を乗りこえること、感情に捉われない心をつくるための仏陀の教えを実践に移す生き方なのです。
経典の言葉
- Subhānupassiṃ viharantaṃ, indriyesu asaṃvutaṃ;
Bhojanamhi cāmattaññuṃ, kusītaṃ hīnavīriyaṃ;
Taṃ ve pasahati māro, vāto rukkhaṃva dubbalaṃ. - (身体は)清浄だと思いこんで暮らし、感覚器官を制御せず、
食事の適量を知らず、怠惰で精進しない人は、悪魔が征服する。
弱い木が風に倒されてしまうように。 - (Dhammapada 7)