No.19(1996年9月)
「愚か者」とは誰のことか
原始経典を読むと、「愚か者」という言葉がたびたびでてきます。たとえ出家者であっても過ちを犯すことがあります。その過ちを戒めるとき、釈迦尊は決まって「愚か者」という呼び名で呼ぶんですね。
決して無駄な言葉、無意味な言葉を使わないということは、釈迦尊のもつ偉大なる徳のひとつです。言葉に対して仏教では、厳しい戒律があります。出家者であろうが在家信者であろうが、人を中傷する言葉と、無意味な言葉は使ってはいけません。それは、犯してはいけない十悪のなかの二つなのです。出家者の場合は戒律の中にも入っています。
ですからお釈迦様が口癖のようにおっしゃる「愚か者」という言葉には何か重要な意味があるはずですのでそれを検討してみましょう。「愚か者」と日本語に訳しているのはパーリ語の「bāla」という言葉です。その言葉にはいくつかの意味があります。まず、年下(若者)、子供という意味があります。それから、知識が足りない人という意味もあります。品格のない、気品のない人という意味もあります。そして、愚か者という意味があります。子供という意味以外は、ほめ言葉ではありませんね。ですが、人をけなすようなきつい意味もないのです。とはいえ、日本で何気なく使う、「馬鹿だなあ」などという意味のない使われ方とは違って、お釈迦様はある特別な意味を持ってその言葉を使っておられるのです。
「bāla」という言葉は、知識があるかないか、年が上か下かに関係なく、普通の人々を意味します。日常的な生き方におおわれ感情のまま流されるままに生きている人が愚か者、つまり「bāla」です。自分の心を見ようとしない、心を清らかにしようという努力はしない、常識的に言っている言葉をそのままに信じて真理を自分で確かめてみようと努力しない、自分の生き方を向上させる方向へ持っていかない、日常茶飯事と、社会人としての日々の仕事に忙殺され、心を見る暇が全くない、このような状態の人は「bāla」です。ということは、ごく普通の人間が、仏教では「bāla」と称されるということですね。最終的な意味でいえば、すべての煩悩をなくして心を清らかにし、悟りを開いて解脱を体験している人が賢者だといっていますから、悟りを開いていない人はみんな「愚か者」だということになります。ですから「愚か者」というのは仏教用語であって、人を非難する言葉ではないのです。
「愚か者には輪廻は長い」と釈迦尊は言いました。上の定義から考えると、人間誰でも、仏教用語を持ちますと「愚か者」になります。我々の人生を考えると、毎日生きることにせいいっぱいではないでしょうか。心の余裕というのは競争激しいこの世界では夢の話のようです。物事を客観的に見て正しく判断して行動するのは、なかなかできないことなのです。日常茶飯事のことで、欲、怒り嫉妬など様々な感情が生まれますが、それらを抑えることはできないのです。仕事のこと、家庭のこと、子供のことなど、色々なことでとにかく我々はいつでも忙しいのです。自分の行動は間違っているかいないかと、判断する暇がないのです。ずいぶん後になってからそれを考える人もありますが、その時にはもう過去のことでどうすることもできません。考えることでただ新しい悩みが生まれるだけです。我々の生き方を見ると、死ぬ思いで猛烈に走っているような感じがします。
今自分が置かれている状況をありのまま見ることは、まったく不可能です。心を見る暇、心を清らかにする余裕はほとんどないのです。たとえば人に、心を成長させなさい、清らかにしなさい、自己観察しなさい、瞑想でもしてみなさいと言ってみたところで返ってくる返事は、仕事で忙しくてそんな暇がない、あるいは家庭のことや子供のことで精一杯で猫の手でも借りたいくらいだというくらいのものです。
一般的にどんな人間でも、自分たちがとても忙しいと思っています。たまに、やることがないという暇人もいますが、その人々に心の余裕があるかと聞くと、まったく違うんですね。そういう人たちは、暇だから悩んでいる、何か自分を忙しくしてくれるものを探し求めている、結局そういうことで精神的に忙しくなり、自己観察はまったくしようとしないのです。要するに愚か者には、解脱の道は開けないということなのです。
本当に我々は忙しいのでしょうか。一般的には、仕事を上手に早くできる人がいるならば、その人は忙しいと焦らないだろうと思います。家事も、すごく上手な人であるならば、テキパキ要領よくこなします。何であれ「上手」といえる人にとっては、どんな仕事でも焦ることなく余裕を持って早く済ませることができると思います。人間には暇がないのではなく、日常茶飯事のことで常に混乱していて精神的に落ちつかないだけなのです。何事についても「巧みな人」になりなさいと言う釈迦尊の言葉があります。そうなったならば、忙しい、暇がない、心の余裕がまったくないと悩むことにはなりません。
歩いて疲れはてている人は、100メートルの距離でもとても長く感じるのです。悩むことがあってまったく眠れない人にとっては、夜はとても長く感じるものです。我々の生き方もそれに似ています。なかなか巧みに生きてはいられないですから、日常茶飯事は大変な仕事だと感じます。生きることで、とても疲れている、それでも生きていかなくちゃいけないんです。ですから心の余裕、安らぎなどを持てるわけはないのです。
我々は常に、今することについて正しく気付いているべきです。他のことで頭を混乱させないで今なすべきことを集中して行うならば、その仕事をうまく完成することができるし、心に充実感も生まれるし、それによって心の安らぎも現れてきます。この生き方によってすべてをありのまま見られ、悟りを開くこともできます。愚か者でいる限りは、輸廻を断つことはありません。
今回のポイント
- 「愚か者」というのは我々の一般的な生き方を指しています。
- 知識があるからと言って仏教では賢者とは言いません。
- その時その時物事を正しく判断し、また観察し行動する人は、知識人であるかないかに関わらず悟りは開けます。
- 人は生きることに疲れはてています。そうならないように努力すべきです。
経典の言葉
- Dīghā jāgarato ratti – dīghaṃ santassa yojanaṃ
Dīgho bālānaṃ samsāro – saddhammaṃ avijānataṃ. - 眠られぬ人にとって夜は長く、疲れた旅人にとっては道が長く感じられる。
真理を知らない愚か者にとっては、輪廻は長く続く。 - (Dhammapada 60)