パティパダー巻頭法話

No.29(1997年7月)

賢者人間入門④

ネガティブ人間からポジティブ人間へ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

賢者というのは、単に智慧があるというだけではなくて、ちゃんとした人格をも持っています。
すばらしい人格を形成していくことは難しいことです。人格を形成していく上においては、言葉遣いに気をつけたり、きちんと挨拶をしたりと、振る舞いに注意してみますが、それを続けていると、神経が疲れていやになることもあります。しかし、たとえストレスがたまっても、行儀よく振る舞えば徐々に心もそれに従いますので、それ自体は悪いことではありません。また逆に心が成長して落ちついているならば人格、行儀というものは無理をしなくても自然にできあがってしまうものです。このように行儀から入って心を育てるか、心を成長させることからはじめて人格のすぐれた人になるか、どちらをとってもかまいません。

参考のために、今回は賢者の人格的な側面を考えてみましょう。偉大なる人(人格者)は、激しい好き嫌いはありません。人はしばしば、「私はこれが嫌いだ」とか「これが好きだ」とか「これが欲しい」「これが欲しくない」などと強く言ったり思ったりします。他人に対しても、人の気持ちに関係なく「あなたはこうしなさい」「こうしてはいけません」と要求したり命令したりします。(言っておきますが、その好き嫌いの気持ちは「自我」だと理解した方がいいのです)しかし好き嫌いの激しい人は、その分、精神的に苦しまなければなりません。物事は自分の思うとおりには運びませんから、他人に対してそのような性格で接すると、人間関係もトラブルばかりです。智慧のある人は自分の主観的な感情をいきなり言い表すことはありません。自分の好き嫌いも他人の状態もともによく理解することで主観的な感情が消えるようにし、それからその場にふさわしい行動をするのです。わかりやすく言えば、常に他人の気持ちも考え理解して行動するということです。そうすると自分にも他人にも苦しみは生まれてきません。完全に賢者になった人の心からは好き嫌いは一切消えてしまうのです。人に対してわずかな自我さえも主張したり、問題をつくるようなことは決してありません。

苦しいとき、物事がうまくいかないとき、人は誰でも落ち込んだり暗くなったりします。ときには自信まで消えてなくなる場合もあります。物事がうまくいくとき、ついているときは、明るく元気になります。しかし自信をつけるのはいいのですが、それが過剰な自信になって高慢になり後で苦い経験をする恐れがあります。いずれにせよ感情が激しすぎるということです。賢者はこのような感情の波を全く持っていないのです。幸福なときも不幸なときも平安な心でいます。

賢者にはもう一つすばらしい性格があります。自分のためにも他人のためにも、不正な方法では何も求めないという性格です。普通の人は財産を得るために方法を問わず、儲かればいいのではないかと考えがちです。バレなければ賄賂ももらい、汚職もします。また財産だけでなく人は名誉も欲しがります。ゴーストライターに頼って作家になるようなこともするし、他人の欠点を暴いて名誉・名声を汚し、自分が名誉を得よう、とします。他人を批判することで自分が偉くなろうとする行動は、世間ではよく見られる現象です。さらに人が欲しがるのは権力です。権力を得るためにも手段を選ばないのが普通です。権力のために大量の殺人、虐殺なども起こります。

賢者はこのような不正な方法で、権力も財産も名誉も何も求めません。釈迦尊は、不正な方法で食べて生きるよりは、法を守って飢え死にする方がすばらしいとおっしゃったこともあります。人間というのは財産、名誉、権力など、何かなければ不安で生きていられず、生きるためにはどんな方法をとっても、それらを得ようとします。これは精神的な弱みなのです。不正なことまでして、財産、名誉を得るべきでしょうか。生きることはそんなに大事でしょうか。何もなくても心が安らかで清らかに幸福であれば、それで十分ではないのでしょうか、と考えるのが賢者の道です。しかし、不正を捨てるためには精神的な強さを必要とします。

仏教における賢者の道は、智慧を育てることだけで終わるものではありません。智慧と同時に煩悩から心を清らかにして解脱を体験することが目的です。
賢者の道は普通の人にとってはなかなか実践しがたいものではないかと思います。勇気と忍耐が必要です。三日坊主ではだめです。もしかすると賢者の道は「その他大勢」の道ではないのかもしれません。

「道を完成するまでがんばれる人はわずかです」(Dh.85)

愚か者で人生を終わるのはおもしろいことではありませんから、できるところまで智慧を上達させるよう人は努力すべきです。走りもしないで負けるよりは、走って実力の差で負けた方が悔いがありません。

釈迦尊がおっしゃいます。

「ネガティプなこと(不善行為-kanhaṃ dhammaṃ)はやめなさい。
ポジティブなこと(善行為-sukkhaṃ)を実行しなさい。
依存している状態から依存を必要としない状態へ(okā anokaṃ āgamma )進みなさい。
汚れから自己を清めなさい(pariyodapeyya attānaṃ )。
執着を捨て(ādāna patinissagge)この世において輝く賢者になりなさい」

暗闇から光の中へ進む道は賢者の道です。仏道は賢者の道です。

今回のポイント

  • 行儀のいい振る舞いをすることによっても、心が落ちつくことがあります。
  • 心が平安な状態であるならばその人の振る舞いは自然に模範的なものになります。
  • たとえ他人のためでも不正なことをするべきではありません。
  • 感情の波に流されるままに生きることは、愚か者の道です。
  • 幸福なときも不幸なときも、苦しいときも楽しいときも、心は平安であることが賢者の特色です。
  • 欲におぼれている世の中で賢者になろうとするわずかな努力でも素晴らしいものです。

経典の言葉

  • Sabbatha ve sappurisā cajanti – na kāmakāmā lapayantisanto.
    Sukhena phutthā athavā dukhena – na uccāvacaṃ panditādassayanti.
  • 偉大な人々は、どこにいても執着することがない。
    快楽を求めて(自分の好き嫌いを)しゃべることはない。
    楽しいことに逢っても苦しいことに逢っても、賢者は動じることがない。
  • (Dhammapada-83)