パティパダー巻頭法話

No.32(1997年10月)

聖者(阿羅漢)の心③

たまったゴミは捨てましょう 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人はものを集めることがたまらなく好きです。人生というのはものを集めることだとも言えるほどです。
生活にどうしても必要なものを集めてためておくことは、理解できます。でもただ集めることだけが好きで、わけもなくなんでもかんでも集めてためておくことを、人間は誰でもやっているのです。
たとえ短い時間でも人がどこかに住んでいれば、そこに必ずいろいろなものがたまってしまいます。私たちの住居というのは必要なものもそうでないものも、無分別にためておくゴミの収集所です。大事だ大事だと思って家はいろいろなものでいっぱいですが、実際に自分が使うものと、ほとんど使わないものと、まったく使ったことがないものと、これからも使えそうにもないものなどに分けてみれば、我々は要らないものをいっぱいためて余計に苦しんでいることがわかるでしょう。

ためる理由もいろいろあります。高価なもの、思い出のもの、必要になるかもしれないもの、捨てるのがもったいないもの、みんな持っているから持っているもの、のような理由でなんでもためておきます。
ためるのはものだけではありません。たくさんの友人や知り合いを作ったりすることも、ためることです。
勉強、稽古などをして知識と能力もためます。
名誉と権力も大事にためたがる代表的なものです。
それから功積もためておきたくなります。
ためるために生きている人間は、一度でもいいですから、何のためにためることに命をかけているのかと考えてほしいと思います。
アリが食べ物をため、ミツバチが蜜をためることにはそれなりの理由があります。ためる仕事をやめたら、アリもミツバチも生きていられません。しかし人間も本当に同じでしょうか。ためなくてもいいものばかり、ためているのではないでしょうか。

限りなくものをためるくせには、精神的な原因があります。
人間はいつでも不安に脅かされています。人間にはなんでも不安なのです。
ものをためる習慣は不安から生まれてきます。将来が不安だからお金を貯めておくとか、仕事が不安だからしっかり勉強しておくとか、生きる目的がないと不安だからコレクターになってくだらないものを集めて人生を楽しもうとします。たとえわずかであろうとも、ものを持つこと、ためることは不安から生まれます。出かけるときに弁当を持っていくことも自分の昼ごはんについて不安があるからです。外国に行くときに梅干しを持っていくでしょう。それも何か、不安があるからです。なぜ不安があるかと考えた方がいいと思います。

世の中のものは何でも変化していきます。いいものも悪いものも、何でも移り変わります。今お金があっても、それはなくなります。今健康であっても、後にはそれを失います。今仕事がうまくいっていても、先にはトラブルが起こる可能性があります。
でも私たちはそのような変化が好きではありません。嫌いだからといって変化自体が止まるわけでもありません。
そこで、次の瞬間において不安が生まれます。ですから、何かをためてその変化を押さえておこうと努力しています。
忘れている事実は、いくらためても変化は止まらないということです。ためてもためても結局は無駄だということです。自分の状態を維持しようと、ためる行為に走るところまではまだ理解できますが、人間の場合は、ためることだけがひとり歩きして、わけもなくものをためるようになっているということが問題です。

ためる習慣は「無常」という真理にさからいたがる心の叫び声です。
「無常」にはさからうことはできないということを、心が理解していないのです。「無常」にさからっていくら努力しても、ものの変化を止めることはできません。ただくたびれてさらに不安が生まれるだけです。

どんなものでも、瞬間瞬間、変化して新しいものに変わっていきますので、これはいいと手にして執着しておくべきものは、何ひとつもありません。このことを理解できれば、ものをためておく気持ちが消えていきます。
ためてもためたものは変化しますから、あとで役に立つわけではありません。
何か手にとってもいいと思うものがあるとしましょう。しかし「いい」ということも、そのときの自分の精神状態、周りの環境などによるものなのです。その時空関係を変えれば「いい」ということはありません。
たとえばバラ1本を、他の花と一緒に美しく生けたとします。それを適当な場所、適当な光の中に置くととても美しく見えます。そしてそのバラ1本があまりにも美しいからといって取り出しそれを暗いところに置くとします。すると先ほどのあの美しさはまったくありません。美しい、大事だ、価値がある、役に立つ、などの価値観はその瞬間に一時的に現れる現象にすぎません。我々が生きている世界も、私自身という存在も、その瞬間だけ現れる幻であって、持っていくべき、守るべき、ためるべき、変化しない価値はひとつもありません。おなかがすいたらごはんに価値がある、のどが渇いたら水に価値がある、パジャマの価値は寝るときにあります。
その環境が変われば価値がありません。パジャマは絹であっても会社には着ては行けませんから。

簡単にいえば、すべては「空」であり実体として変化しない特色は何もありません。
何ものにも心がとらわれない方が安全な状態、不安のない状態です。
徹底的に、ものは無常であること、苦または空であること、変化しない特色、価値がないことを体験することが仏教実践の目的です。
その目的を達成した阿羅漢は何もためておくことはしません。心に何の不安もないからです。食事さえも体を維持するために必要な量だけに限ります。常にすべてのものの空たる状態に目覚め生活します。空に飛ぶ鳥たちが自分の足跡を空に残さないような、そんな生き方が阿羅漢の生き方です。
それは我々普通の人間の生き方とはまったく違います。私たちは必死になってものをため、人間の生きる場所は単なるごみの収集場となっているのです。自分がいたという跡を残すため、本を書いたり像を造ったり、名前を彫ったりします。何もできなかった場合はお墓だけでも作っておきます。

今回のポイント

  • 不安に脅かされている人の人生は、ものをためることだけで終わります。
  • ためたがる心は無常の真理にさからおうとします。
  • 聖者は一切は空であることを知って、平安を味わいます。

経典の言葉

  • Yesaṃ snnicayo natthi – ye pariññāta bhojana,
    Suññato animitto ca – vimokkho yassa gocaro,
    Akāseva sakuntānaṃ – gati tesaṃ durannayā.
  • その人の行く道(足跡)は知りがたい。
    空飛ぶ鳥のあしあとが知りがたいように。
  • (Dhammapada 92)