No.41(1998年7月)
怖がるものは武器を持つ
空虚な勇気より、自信がない方が健全
傍若無人で身勝手で、怖いもの知らずの暴れ者は一見気が強そうに見えますが、実は根性なしで間抜けな気の弱い性格です。大概の人は、気が強くて自信たっぷりの人間になりたいと思っているので、そのように一見気が強そうに見える人たちのことをうらやましく思ったりします。しかしそういう人を見本にして自分の性格を直そうと思うと、大きな落とし穴がありますので、十分注意した方がよいと思います。本当に気が強く自信がある人と、そう見える人とは究極的に違うのです。
このことに関する古いお話があります。お釈迦様から指導を受けたコンダンニャというお坊様が、森の中での修行を終了して、悟りを開いて帰途につきました。途中森の中に空き地があり、そこで深い禅定に入って一夜を過ごしました。同じ夜、ある山賊のグループがひとつの村を襲い、大量の盗品を持ってその空き地にやって来ました。そして暗闇でお坊様のことを切り株と間違え、盗品すべてをそこに積み重ねて置いたのです。しんと静かな闇の中、朝まで休もうと横になったとき、お坊様が身体を少し揺らしたので、突然品物が落ち、音がしました。怖いもの知らずの山賊たちが、これには肝をつぶし恐怖でいっぱいになりました。山賊たちは、切り株に化けていたのは、悪霊かお化けか鬼かと言いながら震えおののき始めたのです。泣き声に邪魔されたお坊様は、静かな声で「私は幽霊でも何でもなく、ただの比丘です」と言いました。こんなに恐ろしい闇の中で、冷静な気持ちのまま、まったく一人で居られるお坊様の根性の強さに、山賊たちは驚く一方でした。大泥棒で、乱暴で人殺しで、人々を怖がらせていた山賊たちが、実は根性がなくて気が弱い本当の姿を、何の武器も持たない一人の出家者の前にさらしてしまい、恥ずかしくてたまらなくなりました。お坊様はわずかの恐怖感もなく、大変やさしい言葉で、彼らに話をして慰めてあげました。見破られた上は、人を脅しながらの山賊としての生活を続けることはできません。また慰めてもらったお坊様を殺すわけにもいきませんでした。お坊様は、生きるということはどういうことかと教え始めました。
「何とかして生きるだけでは何の意味もありません。ただ生きるよりは、どのように生きるかということを考えなくてはなりません。普通の人間として生活できるだけの知識がない人、職を身につけていない人、財産のない人、競争の世界で公平に競争する自信のない人などは、不法の道に走り、泥棒したり暴力をふるったり、犯罪を犯したり、詐欺を働いたりして生きようとします。自分の根性の弱さをごまかすために、強そうに振る舞います。このような生き方は、ただ虚しいだけではないでしょうか。それよりは、本当に智慧があり心が落ち着いた状態で、悪いことから離れた生活ができるならばそれこそが有意義な生き方ではないのでしょうか。」何の恐怖感もなく、未来に対して何の不安も持たない、心穏やかなお坊様の生き方に魅せられて、山賊たちは出家することにしました。それからまじめに修行して、生きることの意味を発見しました。
つまらないストーリーだと思うかもしれませんが、私はこれを実話だと思います。人間の人生というものはごく普通に流れるものであって、それほどドラマチックではありません。暗闇で何かが動き、幽霊だと勘違いして驚くことも、それがただの人間だとわかったときには、恥ずかしくてたまらなくなるのも普通です。弱みを見破られたところで親切に話しかけられ、正しいことを教えられれば、それが素直に心に染み込むことも、ごく普通の心の流れです。悩んだり困ったりしている人々の心が開く瞬間に、正しい方法を教えることが我々にもできればありがたいものです。そのためには私たちも、常に落ち着きの心を持っていないと、智慧は発揮できないと思いますが。
私たちは、大変複雑な競争と変化の激しい社会の中に生きています。毎日、見るもの間くもの、経験するもので、自信はなくなる一方で、自信につながる経験はわずかです。世界を見れば見るほど、あまりにも巨大で複雑で、個人には何もできないと感じてしまうことは避けられないのです。
逆に自信がない人、根性が弱い人、競争したくない人には、生きていられない世界でもあります。
昔より今の時代の方が、精神的な悩み・苦しみが多いのもこれが原因です。
社会の、一部の根性が弱い人間は、自己欺瞞(self deception)の手段に走ります。自分が強いと勘違いして、暴力をふるったり他人をいじめたり、気の強い言葉、乱暴な言葉、失礼な言葉を使って自己主張したり、自分という見せかけのアイデンティティを作ったりします。また一部の人間は、競争に弱いので詐欺に走ります。何かつまらないものを作ったら、今世紀の大発明だと大げさに宣伝して売ったりする誇大な商業主義を我々は毎日経験しています。普通に生きている社会人の中でも、自己欺瞞の行動をたびたび見ます。この現象は、現代では世界中どこにでもある大変な問題です。人間の根性が弱いのはあたりまえでごく普通のことです。それをごまかそうとする人々は、必ず社会的な問題を作ります。
怖がりな人は武器を持つ。気の弱い人は戦いに挑む。自信のない人は強がる。不満のある人は権力、社会的地位を求めて頑張る。自信がない、気の弱い人々が、分別することなく、社会で大げさに行動している人、また成功している人々を見本にしようとすることは、それほど良いことではありません。本当に強い人、自信のある人、能力のある人は、派手に自己主張しないで落ち着いているので、見本にするにはすばらしいのですが、見つけるのがむずかしいことも残念です。
今回のポイント
- 何とかして生きるだけでは何の意味もありません。どのように生きるかということを考えるべきです。
- 智慧がある人生はすばらしい。なければ、育てるようにすればよい。
- 心が落ち着いていることはすばらしい。なければ、育てるようにすればよい。
- 世俗的な成功より、精神的な充実感を優先した生き方は素晴らしい。
経典の言葉
- Yo ca vassasataṃ jīve – duppañño asamāhito.
Ekāhaṃ jīvitaṃ seyyo – paññāvantassa jhāyino. - 愚かに迷い、心の乱れていている人が百年生きるよりは、
智慧あり思い静かな人が一日生きる方がすぐれている。 - (Dhammapada 11)