No.45(1998年11月)
心は癖で行動する
心に良い習慣をつけないと自由になれません
自由に生きているのだ、自由に考えているのだ、私は自由だ、と多くの人が思っています。自由というのは人間が好きな言葉です。自由がないと、悩んだり文句を言ったりする人も人間の社会では多くあります。
ですが、自由という言葉に、単純に惹かれるのではなく、それは何を意味するかを理解した方がよいと思います。自由を切望する人のことを考えると、その人たちは自分なりの定義を持っているように見えます。ほとんどの場合、聞こえるのは、「好きなことをやりたい」という言葉です。好きなことができて、生きていられれば、自分は自由だなあと思ってしまいます。
そこで、好きなことをできる人生は本当に自由なのかどうか、考えてみましょう。人間は、心でものごとを考え、また判断して、生きています。考える、判断する、感じる器官である心が自由でなければ、人は自由だと言えないのです。心という働き自体が、まったく自由でない、束縛されている、操られているというのが仏教の立場です(心が自由でないということは、人間は本来自由ではないということもいえるのです)。心という働きは、何によって操られているのでしょうか。
目、耳、鼻、舌、身体、に触れる情報によって、操られます。たとえば、聞きたくはないと思っても、きれいな音楽が流れているとつい聞いてしまう。食べたくはないと思っても、おいしいものはつい食べてしまう。また我々の考え方によっても操られます。ある人が嫌いだと思っていると、その人がいくら良いことを言っても耳に入りません。そのように、心は常にそれらに操られていて、自由に行動するわけではないのです。そのうえ、心はありとあらゆることからいとも簡単に影響を受けてコントロールされます。文化、伝統、習慣、教育、政治、経済、宣伝、宗教、カルト、などに簡単にコントロールされます。また、洗脳されます。そこで、心は本当に自由なのかということを考え直さなければなりません。自分の意志で考えることさえもできない人間が、自由に生きていきたいと考えることには矛盾があります。心に浮かぶ自由のイメージ自体も、とっくにコントロールされています。心は簡単には自由になりません。
完全たる自由を得るためには、あせらずに気を長くして着々と努力をする必要があります。心というのは「癖」がつきやすいものです。突然犬に吠えられて怖くなった子供は、それ以降どんな犬を見ても怖くなってしまいます。何か食べ物を食べて予想以上においしかったら、それをたびたび食べるようになります。怒る癖がついたら、一生怒りっぱなしの人生になります。小さいころ、本を読んで感動したら、一生読書家になります。我々は、勉強するときでも、仕事を習うときも、心の、この癖がつきやすい性格を十分に生かしています。癖がつかなかったら、何の勉強もできなくなります。どうせ心には癖がつきますので、良い方向へ、或いは正しい方向へ習慣づけるように、気をつけなければなりません。
心についた癖、あるいは習慣は、そう簡単には変えられません。いったん何か癖がつくと、人はその通りに次に行動を起こし、それによって癖が強化されます。そこでまたその通りに行動し、癖はさらに強化されていくのです。というわけで、癖はつきやすいものですが、それをなくすことはとても大変なことです。
そこで、人は、良い習慣を身につけるべきですよという真理は成り立ちます。悪い癖がついたらどんどんそれが強化されていきますので、人生は次から次へと不幸になってしまいます。逆に良い習慣をつけた人々は、次から次へと幸福になっていくのです。小さいころ、すぐ怒る、喧嘩する、というような癖がついた人が、それを直さないでそのまま成長すると、人生は犯罪者で終わるかも知れません。物事をよく理解してしっかり行動する癖がついた人は、そのままいけば人生を順風満帆に歩むことができます。
生命は無始なる過去より貪瞋痴の衝動で輪廻転生しながら生きていますから、生が悪い方向へ傾くようになっていることは残念ながら事実です。ですから誰でも、悪いことだけはしやすくなっています。善いことをするのはむずかしいのです。我々の人生の中でも、悪いことをしたり罪を犯したりした経験は多いと思います。今さらそれを後悔すると、精神的に暗くなる癖もついてしまいます。悪いことをひとつもしなかった人がいるわけではありません。悪いことは、誰にでもしやすいものです。そういう癖がついて生まれてきたのですから、自分を責めても無意味です。
私たちは心が良い方向へ向くように、精進、努力しなければなりません。してしまった悪いことが思い浮かんだら、同じ過ちを犯さないように気をつける、気をつけなければ、また繰り返し、同じ過ちを犯すようになります。過ちを繰り返すようになると、心には直しにくい頑固な悪い癖がついてしまいます。ですから努力してでもいやいやでも、善いことを繰り返し、し続けなければなりません。そうすると間もないうちに良い癖がついてしまいます。良い癖がついた人は悩むことも苦労することもなく、ごく自然に善いことができるようになるのです。それは人の幸福への道です。
心の癖で生きている我々には、自由というものはないのです。自由という人間の概念は、今までの癖がついた生き方から対極的に生まれる操られた概念です。自由になる道は遠いです。善いことであれ、悪いことであれ、どんなものにも波立たない、全てを超越した心のみが、自由です。そこへたどり着くまで、我々は心に悪い習慣を付けないよう、良い習慣を付けられるように気をつけなくてはなりません。
今回のポイント
- 心は条件のなかで行動しますので、自由というのは成り立ちません。
- 癖がつきやすい心に良い習慣をつけられるように努力するべきです。
経典の言葉
- Pāpañ ce puriso kayirā – na taṃ kayirā punappunaṃ,
Na tamhi chandaṃ kayirātha – dukkho pāpassa uccayo. (Dh.117)
Puññaṃ ce puriso kayirā – kaiyirā the’taṃ punappunaṃ,
Tamhi chandaṃ kayirātha – sukho puññassa uccayo. (Dh.118) - 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。(Dh.117)
人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。
善いことが積み重なるのは楽しみである。(Dh.118) - (Dhammapada 117,118)