No.51(1999年5月)
無関係なことにも巻き込まれる
危険から身を守れるのは理性のみ
舎衛城(Sāvatthi サーワッティ)という都市に、宝石細工職人の夫婦が暮らしていました。この夫婦は仏教を信仰し、お布施として一人の阿羅漢(聖者)の生活のお世話をしていました。その阿羅漢は毎日その家に托鉢に行き、食事をいただいて、説法をするなど精神面の指導をしていました。ある日その職人が肉を手に入れ、阿羅漢にごちそうしようとさばいていました。阿羅漢にとっても大変親しい家族ですので、少々早めにその家に行って、料理が出来上がるまで座って待っていました。そのとき、コーサラ大王の従者が宝石の原石を持ってきて、磨くように命じました。彼は肉をさばきかけた血だらけの手で原石を受け取り、机の上に置いて、手を洗おうと外へ出ました。その家では、一種の鶴を飼っていました。その鶴が、肉の一部をもらおうと、そのあたりを歩いていたのですが、主人が外へ出た隙に、血にまみれた宝石を飲み込んでしまったのです。阿羅漢の目の前で起きた出来事でしたが、聖者ですのでどうすることもできませんでした。帰った主人は宝石がないことに気が付いて、驚き、一瞬のうちに血の気が引いていきました。「大変だ。家族や親戚がみんな、確実に王に殺される!」。そこにいたのは阿羅漢だけでしたので、阿羅漢に「原石はどうしたのでしょう」と聞きましたが、阿羅漢は何の返事もせず沈黙を守っていました。とにかく口を割らせて原石の行方を調べなければ家族の命がとんでしまうと、とうとう阿羅漢に対し殴る、蹴るの暴行を始めました。阿羅漢は沈黙したままでした。攻撃はエスカレートして、激しい拷問に及びました。手足を縛り、頭に皮のひもを巻き付けて、頭蓋骨が割れるほど引きずり回しました。しかしもしも宝石の行方を言ったら、鶴が殺されますので、阿羅漢は何も言いませんでした。
騒ぎを聞きつけた奥さんが出てきたとき、阿羅漢は大変残酷な状態で責められていました。奥さんは泣きながら「このお坊様は大変尊い方で、これまで我々のために慈しみを尽くしてくださったではありませんか。何の欲もないこの方は、この宝石には何の関係もないではないですか。たとえ私たちが王に殺されても、聖者をいじめて地獄に落ちるよりはましではないですか」と必死になって拷問をやめさせようとしました。しかし、職人は怒りに狂って、奥さんの嘆く声が耳に入りませんでした。
阿羅漢の頭からも身体からも、血が噴き出し始めました。すると肉好きな鶴が、何か食べ物があるかなあと二人の足もとにまとわりつき始めました。激情に狂っていた職人は鶴を蹴っ飛ばしてしまいました。鶴は壁にぶつかって、死んでしまったのです。阿羅漢はいまだに拷問の真っ最中でした。沈黙を守り続けた阿羅漢は、動かない鶴が目に入ってやっと口を開きました。「あなたの鶴、大丈夫かなあ。ちょっと調べてください」いくら怒りに狂っても、ペットはやはりかわいいものですね。彼が拷問をやめて鶴を調べたところ、死んだことに気が付き、悲しみがどっとこみ上げてきました。鶴が死んだことを確かめたとき、阿羅漢が「あの原石は、この鳥が飲み込みましたよ。調べてみてはどうですか」と告げました。お腹を切り開いたところ、原石が見つかりました。
それからがまた大変です。自分が殺されかけても黙って鶴の命まで心配する、何の罪もない、偉大なる聖者を怒りに狂って暴行した自分を責めるに責めきれず、彼は大変な後悔に中に陥ってしまいました。土下座して阿羅漢に深く頭を下げながら、ただただ謝る一方でした。阿羅漢も何事もなかったかのように彼を許し、慰めてあげました。彼も「これからも私たちの幸せのために、毎日お世話いたしますので、来てください」と頼みました。すると阿羅漢は、「私の過去の悪行為によって私は今日は殺されかけました。それはあなたのせいではなく、私自身の過去で犯した何かの罪の報いです。こうなったのも私が煩悩のない身であるにもかかわらず、あなた方家族と親しい関係をもったからです。三宝に信頼を抱き、善行為をしようとしていたあなた方も、私のせいで余計な悪行為に手を染めてしまいました。私は心からあなた方を祝福します。どうぞこれからも心清らかにすることに励んでください。私は金輪際、在家の方々と何の関係も持たないようにいたします」と言って帰りました。
その阿羅漢はまもなく、拷問が原因となって息を引き取りました。細工職人は、悩みにおかされ長生きできませんでした。奥さんも何年か後に、後を追いました。お釈迦様の弟子たちは、この出来事について説法を乞いました。お釈迦様は、次のように説法されました。「その細工職人は、自分の行為によって地獄に落ちました。阿羅漢は涅槃に入り、輪廻の苦しみを乗り越えました。奥さんは信仰深い優しい人でしたので、今天界に生まれ変わっています。鶴は自分が飼われていた家族に対して大変愛情がありましたので、死んでからその奥さんのお腹に宿り、その家の息子として生まれ変わっています」そういうふうに説明いたしました。
このエピソードから、業の働き方がいくらか理解できるだろうと思います。家族みんなで同じ出来事に巻き込まれても業の結果はさまざまです。悪いことの結果は、家族のみんなに、また代々と伝わるよという日本にある業の観念は仏教にはないことが理解できることと思います。先祖の業は子孫には受け継がれないのです。行為を行う人はいつでも、自分の意志でやるものです。たとえ強引にやらされても、行った場合は、自分の意志でやったことにかわりはありません。業(Kamma)は 個人の責任です。言われているとおり、「自業自得」です。(あの細工職人のように関係のないこと、また無意味にひどい罠にひっかかって罪を犯してしまう恐れが誰にでもありますので、理性を失わないで注意深く生きることが大切です)
今回のポイント
- 業は個人の責任です。その報いもその個人が受けます。
- 関係のないことに巻き込まれることは誰にでもあります。
- 理性を保ち、心清らかであれば、安全に生きられます。
経典の言葉
- Gabbhaṃ eke uppajjanti – nirayaṃ pāpakammino
Saggaṃ sugatino yanti – parinibbanti anāsavā - ある人々は(人の)胎に宿り、悪をなしたものどもは地獄に堕ち、
行いのよい人々は天におもむき、汚れのない人々は全き安らぎ(涅槃)に入る。 - (Dhammapada 126)