パティパダー巻頭法話

No.54(1999年8月)

続・なぜ殺してはいけないのか

殺意は無知から生まれる 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

自分は殺されたくはない、という気持ちは、すべての生命が持っています。「私」を理解すれば、この論理は、簡単に理解できます。「私は殺されたくない」「幸福に、楽に、長生きしたい」という気持ちは普通です。ですから、我々は生まれたときから必死になって、生きていこうと努力しています。知識として、自分に対する自我意識が現れたら、自分で頑張って生きていることに、また、死を嫌っていることに気が付きます。不思議なことに、自我意識が生まれる前の胎児の時も赤ん坊の時も、生きるために、無意識のうちに必死になって頑張っているのです。「私を殺すなかれ」という気持ちは意識のみならず、無意識のレベルにまで浸透しているのです。これは生命の本能です。自分をモデルにして他の生命を観察すると、生きていきたい、殺して欲しくない、という気持ちは、すべての生命に普遍的であることが発見できます。

生きたくない、と思う生命なら、努力して苦労して生きる必要はないのです。そのような生命は喜んで自殺を考えるでしょう。でも問題は、自殺の瞬間まで、その生命が苦労して生きてきたということです。いろいろな問題にであって、発作的に、自殺という決断になってしまうだけです。もし、生命が生きたくないと思うものであるならば、将棋倒しのようにパタパタと死んでいくでしょう。もし生命が、生きていたくない、死にたいと思う存在ならば、生まれてすぐ、あるいはまた、生まれると同時に死んでしまうでしょう。そうすると、生を持つ瞬間に死んでしまいますので、生命というものがなくなってしまうはずです。しかし事実は、限りない生命がいて、皆必死で生き続けるための努力をしているのです。すべての生命が、生きていたい、殺されたくないという気持ちを持つことは、確固たる事実です。

死ぬことはとても簡単です。生きることは、逆に、大変むずかしいことです。この事実をよく考えていただきたいのです。にもかかわらず、限りない生命がいて、そのすべてが必死で生き続けたい、死を避けたい、と努力しているのです。我々のまわりに生命がいること、そしてここに私が生きていることが、「生命は、楽に幸せに、長生きしたい、死にたくない」という事実を物語っているのです。努力もせず、何もしないでいるならば、すぐ死んでしまうはずですので、生命はいかなる苦労もいとわず、生きのびるために努力しているということがいえるのです。

生きるために、他の生命の協力、支えなどは、もっとも必要であり、もっとも大事な要素です。他の生命からの支え、協力、助けなどがあればあるほど、自分は幸せに生きていられます。生きている生命の成功の度合いを測るポイントも、他の生命からの協力と支えを得ているかいないかという点にかかっています。他の生命に迷惑をかけたり、妨害をする人には、他からの協力はなくなりますので、不幸になってしまいます。時には、守りたがっている自分の命さえも失う場合があります。「幸せになりたい」「病気になりたくない」「長生きをしたい」「楽に生きていきたい」と思うならば、またそれらの希望を実現したいならば、方法はただひとつです。自分に関わりのある一切の生命に対して親切であること、慈しみを持つこと、協力すること、助け合うことです。

ある日、お釈迦様が、子供たちのグループに出会いました。みんなワイワイ騒いで、一匹の蛇をいじめていました。お釈迦様がたずねました。「君たちは何をしているんだ?」「この蛇に噛まれたら、大変だよ。死ぬかもしれない。怖いからこいつをいじめているんだ」と子供たちが返事しました。お釈迦様は、自分の幸せのために他の生命をいじめると、欲しがっている幸せ自体がなくなってしまい、逆にとても不幸になるのだと教えてあげました。相手が、たとえ毒を持つ蛇であろうとも、逃がしてあげなさい、ほおっておきなさい、その方が君たちが幸せになれて、守られるのですよ、と教え、蛇を逃がしてやりました。「殺されたくない」生命は、自分の命を守りたければ、決して他を殺してはいけません。

私が幸せになりたい、ということは、全ての生命は幸せになりたいということです。あなたがたはどうなってもよいのです、私だけ幸せになりたいのです、という論理は成り立ちません。幸せは他人の協力によって実現できるものですから、「私だけ」と思う人の幸せは、あとかたもなく、無惨にも消え去ってしまいます。「人を殺してはいけません」という一般的な言葉の意味、また仏教でいう「生命を殺してはいけない」という言葉の意味も、「私を殺すなかれ」ということだと先月号でお話ししました。私が死にたくない、私を殺すなかれ、という本能は、一切の生命が死にたくない、殺されたくないという事実を示しています。ですから、仏教において論理的な道徳は「人を殺すなかれ」ではなく、「生命を殺すなかれ」です。「不殺生」なのです。

他人を殺す人は「私を殺すな、でも私はあなたを殺す」と思っているのです。他人をいじめる人は「私をいじめるな、でも私はあなたがたをいじめる」と思っているのです。私を殺すな、でも私はあなたを殺したい、私のものを盗むな、でも私はあなたのものを盗みたい、私をいじめるな、でも私はあなたがたを思う存分いじめたい、という理屈は、いかなる場合でも成り立ちません。そう考える人は、究極的な無知であり、何の理性も持たない人でしょう。「他を殺してはいけない」ということだけは、絶対的な論理です。人に「生きていきたい」という本能があるならば、絶対に、他を殺してはいけません。他を殺す人々は、ただ単なる、無知そのもので、自分の手で自分の首を絞め、殺しているのです。

今回のポイント

  • 人の幸せと成功は、他の協力によります。
  • 他をいじめ、殺す人々の行動は、自分が究極的に無知であることを、表しています。
  • 自分が殺されたくない生命は、他を決して殺してはいけません。

経典の言葉

  • Sabbe tasanti dandassa – sabbesaṃ jīvitaṃ piyaṃ,
    Attānaṃ upamaṃ katvā – na haneyya na ghātaye. (Dh.130)
  • すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
    己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
  • Sukha kāmāni bhūtāni – yo dandena vihimsati
    Attano sukhaṃ esāno – pecca so na labhate sukhaṃ (Dh.131)
  • 生きとし生けるものは幸せを求めている。もしも暴力によって生きものを害するならば、
    その人は自分の幸せを求めていても、(その結果として)幸せは得られない。
  • (Dhammapada 130,131)