パティパダー巻頭法話

No.61(2000年3月)

快楽におぼれると

仏弟子は気品高く生きるべき 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

世俗的な快楽というものは、人の心を強くとらえるものです。

たいていの人々は、快楽におぼれて生活しています。楽しむのはかまわないのですが、快楽におぼれると、自分が何をやっているかということに気づくことができなくなります。

麻薬、賭事などに依存する人々が、そのためにどんな悪いことでもすることを、皆よく知っています。
でも本人にしてみれば、賭事のため、麻薬のために、どうしてもお金が必要になります。その人にとっては、その快楽以外には生きる道も人生もないのです。それがなければ人生が虚しく感じられます。
ですから快楽の目的を達成するために、手段を選ばずいかなる悪い方法を使ってでも金儲けに手を出します。このような生き方が正しくないことは一般常識です。

仏教から見ると、そのような人々は快楽に酔っていますので、判断能力を失っているのです。わかりやすく言えば頭がおかしくなっているのです。
快楽には、人の頭を狂わせてしまう恐れが必ずついてまわります。完全に安全な世俗的快楽はあり得ないのです。麻薬、賭事などに依存した中毒症になっていない我々も、常識的に認められている世俗的な快楽についても、常に注意する必要があります。

人は誰でも心が欲におぼれた瞬間に、頭がおかしくなるのです。そのときはいろいろな恥ずかしいこと、みっともないことをするのです。ときどき(セクハラなど)法律も犯して、大変不幸になる場合もあります。そのようなケースがたびたびマスコミを賑わしています。

お釈迦様の教えを学ぶ人々は、日常的な快楽についても常に注意した方がいいと思います。
お釈迦様が、在家の方々の世俗的な楽しみを禁止されていないことを盾にして、欲におぼれないようにしないと不幸になることでしょう。

仏弟子たち(お釈迦様の教えを実践する人々)は、気品高く、自分の日常の生き方を正さなくてはならないのです。悪いこと、みっともないことをするのは、死ぬほど恥ずかしいと思わなくてはならないのです。
「恥を知ること-hiri」は、人の幸福を守る命綱です。インド的な考えによると、駿馬は悪いことをして主人に鞭打たれるよりは、死んだ方がよいと思っているようです。ですから、駿馬は主人に叱られないように厳密に自分の生き方を観察しているようです。

お釈迦様も、駿馬のように「恥を知るべきですよ」と説かれています。人間を馬にたとえてみるならば、仏弟子たちは走るしか能力のないサラブレッドになるよりも、もっと優れた駿馬になるように励むべきではないかと思います。

世の中の快楽に足を引っ張られると、人間は精神的に優れた人格を作ることが難しくなります。
毎日のことで精一杯ですので、心を見る暇がなくなるのです。
欲だけを目指す人は頭に霞がかかっているので、仕事や家族のことなど毎日の生活も乗り越えがたい大変なチャレンジだと勘違いします。

欲に足を引っ張られることがなければ、仕事のことも家族のことも他の社会のことも、小さな問題に見えるはずです。
それらは、ヒステリーを起こしたり神経質になったりストレスを溜めたり精神的に病気になったりするほどの問題ではないことが、よく理解できます。その人には心の余裕も落ち着きも生まれるので、より高い次元で人生を観察して、智慧が現れるチャンスを得ることができます。
仏陀の教えを理解しようと思うならば、自分の人格を発展させ、清らかな心を作るためにチャレンジしなくてはならないのです。
駿馬が鞭をいやがるように、悪いことをいやがる性格、自分の欠点を苦労してでも治す気持ち、日常生活に限られた人生というのは虚しくて沈滞したものだと感じる緊迫感を持つべきです。
迷信も盲信もやめて根拠を持って行動するという、確信に満ちた(saddhā)生き方、道徳を守ること、心の落ち着きを保つこと、鋭い区別判断能力を持つこと、などで、徐々に駿馬のような人間になります。

お釈迦様の侍従であった阿難陀(ānanda)尊者が托鉢に出かけたとき、ボロ服を着て乞食をしている若者が目に入りました。
若いのに、食い物を探すことしか頭に余裕がないこの子のことを心配して、彼に「君、そんなに苦労しないで、出家して修行してはいかがでしょう」とたずねました。
「出家させていただけるならば、ぜひお願いします」と彼が答えました。

その若者は、ボロ服と乞食道具をある木の下に片づけて、出家し修行を始めました。
きれいな衣を着て、普通にごはんをいただいて修行する若僧に、たびたび欲が出てきます。
そのとき、戒律を守らなければならない出家がいやになって、還俗したくなります。そのとき彼は、あの木の下に行って、自分の人生を観察します。

「おまえは欲におぼれて還俗したいのだろう。ではもう一度、この汚い服を着て乞食をやって、楽に生きてみなさい」と自分に問い返します。そうすると、なんで自分はみっともない生き方に戻りたがるのかと思い、欲が消え、自分は清らかな仏道に励むべきだと気持ちが変わりました。

これを何度も繰り返すので、比丘たちの間でも有名でした。

「君はなぜ、あの木の下にしょっちゅう行くのですか」と聞かれると、「私の先生のところに行って、いましめてもらうのです」と答えました。

やがて心の葛藤にもうち勝って、彼は悟りを開きます。
それっきり、木の下へは行きませんでした。他の比丘たちに「君は先生のところに行かないのか」とからかわれたとき、もう先生の用は済みましたから行く必要はないのですと答えました。

お釈迦様もこの若者を、よく頑張って悟りを開いた大変立派な人だと認めました。
このエピソードのボロ服は、人間の成長の足を引っ張る欲、世俗的な快楽を象徴しています。

今回のポイント

  • 欲に酔うと頭が狂います。
  • 仏弟子は気品高く生きるために努力するべきです。
  • 欲に足が引っ張られなければ、幸福がつかめます。

経典の言葉

  • Asso yathā bhadro kasā nivittho – ātāpino samveginobhavātha
    Saddhāya sīlena ca viriyena ca – samādhinā dhammavinicchayena
    Sampanna vijjācaranā patissatā – pahassatha dukkhaṃ idamanappakaṃ.
  • 鞭に触れた駿馬のように(心の汚れを消すために)努めよ。
    (欲に対し)緊迫感を持ちなさい。
    確信、戒、精進、精神集中、区別判断能力を持ち、
    賢者になって限りない苦しみを乗り越えなさい。
  • (Dhammapada 144)