No.63(2000年5月)
人は幸福に盲目です
一般人の幸福論は差別的です
人生を楽しみたい、楽しく生きていきたい、と人は誰でも思っているのではないでしょうか。 わざと苦しんで生きる必要はないのですから、人生を楽しむべきものと考えるのは、当然のことです。もしも楽しんで生きられるならばそれはそれだけのことで、何の問題もありません。
しかし、人生を楽しむということは、それほど簡単なことではありません。 楽しみたい、楽に生きたいと思っているのに、なぜ悩みや苦しみが生まれてくるのか…それは、ずっと人間の頭を悩ませてきた問題です。
世の中にある学問も、科学的研究も、心理学・哲学も、宗教も、この問題を解明しようと努力してきました。 その結果、一方で楽しみと呼べるものが増えると同時に、他方には、苦しみというものが増えていくことも否定できない事実です。
我々が今まで練りに練ってきた方法が、楽しみと同じぐらい苦しみも生み出すことになるのなら、手放しで絶賛できるでしょうか。今までの人類の歴史を振り返ってみると、人生というものは「楽しみ」という薄い砂糖膜につつまれた、苦い「苦しみ」の固まりではないかと思います。楽しく、気楽に、生きられる方法をいまだに見つけていないということが、不思議でたまりません。
楽しみを獲得できれば、幸せでしょう。しかし人は、人生を楽しみたいと言うばかりで、誰一人として「楽しみとは何か」を客観的に解明した人はいないのです。ですから、お金や財産があれば楽しい、家族や仲間がいれば楽しい、健康で長生きできれば楽しいということと、おいしいものを食べて飲んで、遊ぶことができれば楽しいということくらいしか考えていません。
それくらいのことで、本当に人生が幸せいっぱいになるものなのかと考えたことがありますか。その程度のことを満たした人は、世の中にいくらでもいるのです。
その人達が、生きることに何の虚しさも感じていないかどうかを調査してみれば、答えを知ることができます。ガーラパーティを開いたり、豪華絢爛に着飾って遊ぶことで満足感を感じているのだと自慢する人々もたまにいますが、その人達の人生を観察すると、見栄・傲慢・嫉妬・憎しみ・怒りなどで心があまりにも汚れ、苦しんでいることがわかります。
人生の目的は食べることと遊ぶことだと思っているような人々は、無知のかたまりであって、みんなにほめられるような部分はほとんど持っていないのです。そのような生き方も虚しいです。
一般的に「楽しみだ」と思われているもののすべてが、我々をだますからくりです。たとえば財産があれば楽しいと思う人がいるとします。財産は、空からは降ってこないのです。大変苦労して獲得しなくてはならないものです。どんなに苦労しても、成功する場合もしない場合もあります。 財産を得たとしても、その管理にずっと苦労しなくてはいけないのです。 結果として、わずかな楽しみがあっても、その本人が財産の奴隷になってしまいます。
平和な家族があれば幸せだろうと思う人がいるとします。 しかし、自分の性格に、また好みに、ぴったり合う相手がそんなに簡単に見つかるでしょうか。家庭を作って子供が生まれてからも、育児は楽しみだけの仕事でしょうか。 家庭の平和を守るために、一生苦労して生活しなくてはならないでしょう。 自分一人の気持ちだけでは、何の行動もできなくなるでしょう。
家族だけでなく、親戚や隣人のことも考慮して、行動する必要が出てくるでしょう。
平和な家庭を作るために努力する人が、結局、家族の奴隷になる羽目になります。
また、健康と長生きを幸せの基準にする人がいるとします。 生きること自体が、とてつもなくおもしろいものであるのなら、健康も長寿も意味がありますが、健康で長生きしたいと思う人自身が、何のために生きているかということをわかっていないのです。 たとえ生きることがおもしろくても、健康と長寿はまったくあてにならない不確定なものです。 健康を維持しようとする努力自体が苦しいものであって、その苦労はまた歳とともにエスカレートしていきます。 努力の結果健康でいられるかもしれませんが、維持する苦しみも増えていくのが現実です。
客観的に見ると、このように見えますので、人生は薄い砂糖膜に包まれた苦しみのかたまりだと申し上げたのです。
財産があれば幸せ、健康・長寿であれば幸せ、ということばかり考えると、
財産があまりない人は不幸ですか、
ジャングルで何の財産も持たないで生活する人々は不幸ですか、
家族を持たない人は不幸ですか、
80才を超えて生きられない人は不幸ですか、
と聞きたくなります。
そのように生きる人の中にも、幸せな人はたくさんいます。財産、長寿、遊ぶことなどを、幸せの基準にする考え方は差別的です。なぜならば、皆が平等には得られないものだからです。結果として、人類の一部を不幸だと決めつけているからです。 結局のところ、幸福か不幸かということは主観的な見解にすぎません。
人間は一向に理解しようとしないのですが、幸せの本当の意味は心の安らぎです。心に悩み苦しみがない状態です。 嫉妬・怒り・憎しみなどで、病んでいない心です。
ものではありません。ものをいくら追っても、心が病んでいるなら、そこにあるのは単なる苦しみだけです。 心の安らぎは万人に得られるものです。それに、誰かと競争して誰かを負かして勝ち取る必要はないのです。
人類は、幸せに対して盲目です。 幸せと一向に関係のないものが幸せだと勘違いしているのです。我々は日々歳をとっていくのです。 知識も体力も衰えていくのです。 必ず病気に襲われるのです。 いつどこで死んでしまうかわからないのです。これらは、決して避けられない事実です。
それなのに、幸せとは何の縁も関係もない物質を追いかけているのです。目を覚ましてみたら、人類はずっと、物質に振り回され、追いかけられる結果になっていたのです。物質の奴隷となって自由を失って生きてきただけで、「幸せって何ですか」と、考える余裕さえもなかったのです。
幸せは心の安らぎです。
今回のポイント
- 生きることは、楽しみを目的としています。
- 楽しみに、幸福に、人類は盲目です。
- 本当の意味の楽しみを獲得できれば、人生は幸せです。
経典の言葉
- Konu hāso kimānando – niccaṃ pajjalite sati,
Andhakārena onaddhā – padīpaṃ na gavessatha. - (あなたがたの)笑いは何ですか。(何を)喜んでいるのですか。
(人生は)常に(貪瞋痴の炎で)燃えているのに。
あなたがたは(無明という)暗黒に覆われている。
どうして燈明(真の幸せを理解する智慧)を求めないのか。 - (Dhammapada 146)