No.74(2001年4月)
何に頼れば安全ですか
不安がこころの自由を壊す
宗教というのは、何かを信仰して、それに頼って生きることだと言ってもそれほど間違いはないと思います。完全な自信を持って生きている人はほとんどないでしょう。『不安』というのは『運命』のようなもので、生まれると同時についてくるものです。ですから自然に、人は何かに頼りたがるのです。こころの不安、恐怖感などをまぎらわせてくれるならば、頼るもの、信じる対象は、なんでもかまわないと、人は思っているかのようです。
さまざまなものを信仰することに疲れ果てた人々は、『絶対的な神』のような概念を信仰します。地球の半分以上の人々が、そうでしょう。そのほかの人々は神々、精霊、聖地、先祖、グルなどを信じます。お守りなどの小物を信じる場合もあります。占い、迷信などに頼って生きる人々もいます。
これらの人たちと違って現実的な人々は、金、知識、権力、地位などに頼って、『安心感の幻覚』を喜びます。もっと具体的に考える人々は、「家族を養わなければならない」「子供を育てなければならない」「祖父母、両親の面倒をみなくてはいけない」といった考え方で、日々の生き方に使命感を抱きます。そんなときには、こころのなかで不安感とたわむれる余裕がないのです。
『頼る』形にはもうひとつのタイプがあります。社長を信じて仕事に励む、政治家を信じて政権を任せる、学校を信じて子供を有名校に入学させるといったような行為にも、『信じる』『頼る』機能が働いています。頼る対象がこれらの場合も、裏切られて期待はずれになることが多々あります。
頼る対象が宗教的であろうとも具体的であろうとも、何かを信仰すること、頼ること、依存することで、確実に不安感や恐怖感がなくなるとはいえないのです。ですから、次から次へと違う依存の対象を探し回るのです。たとえばカトリック教を信じている方々は、絶対的な唯一神を信仰しているので、論理的には頼るものはそれだけで十分だろうと考えられますが、聖母マリア、聖ペトロ、聖トーマス、聖アントニー、聖ザビエルなどの聖人たちにも、頼ったり祈ったりするようです。仏教徒である日本人も、神社に行ったりします。やはり、人間にとって、依存する対象は一つでは足りないようです。
さらにもうひとつ側面があります。試験や試合などに臨む自分の子供のこころの動揺を感じる母親は、「お母さんが守っているからがんばってね」と子供に言います。それで子供も「お母ちゃんが守っているから」と思って、不安を抑えてがんばります。しかし子供は自分一人の力で試験を受けなくてはいけないのです。守ってくれると約束した母は、試験中、子供にヒント一つ与えることもできないのです。結局は母には何もできないのです。それでも、守ってくれる味方がいる、応援してくれる、祈ってくれると思うと、ある程度不安を払いのけることができるのです。ですから、信仰するものがまったくない人でも、誰かが励ましてくれると、あるいは応援してくれるとがんばれるのです。これも、そのときそのときには役に立ちますが、完全な頼りにはなりません。こころの不安も消えることはありません。
結局は、頼ること、依存すること、信じることが人のこころの問題の解決にならないことだけは確かなようです。それなのになぜ何かに頼ること、何かを信じることが人間のこころから離れないのでしょうか。簡単な答えは、不安というのは生まれつき、必然的に人についてまわるものだということです。人は、頼るもの、信じるものばかりに気を取られて、自分のこころの本当の状態には気付いていないのです。結局は、人間はひとりで努力しなくてはいけないのです。何かに頼ったからといって、自分が成長するわけではないのです。
逆に言えば、成長できない、前進できないのは、こころに不安、恐怖、期待のような汚れが存在しているからです。こころからこの汚れを取り除けば、何かに頼る必要がなくなります。完全に不安を取り除いた人は自分を頼るしかないのです。
こころに不安がある限り、何かに頼る必要は消えません。簡単に何にも頼るなかれと言っても、それを実行することは難しいのです。他が頼りにならないというのは仏教の基本的な立場ですが、三帰依という概念がありますから、それは矛盾ではないかと思われる可能性もありますので説明しましょう。
もともと不安に悩まされている人には、自分で努力することが少し難しくなります。そのとき、仏陀は努力によって完全なる悟りを開いたのだ、その方法も明確に教えたのだ、また、その方法で成功を収めた弟子たちもたくさんいるのだと思うと、自分も努力すればこころの不安を完全に取り除くことができるのだと自信がつくのです。これが三帰依を行う意味です。三帰依をする人は、他の何かに頼ると、気持ちが揺れてしまって、しっかりと努力することができなくなりますから、他に依存することをやめるのです。三帰依は、人を育てることで有名になった優秀な先生のところへ弟子入りするのと似ています。実践によってこころの不安が消え、「三帰依してよかった」「有効でした」と思えたら、一時『頼る』働きを担った三帰依が、確信に変わります。これで、頼ること、依存すること、信仰することが、最終的に消えるのです。
このように仏教の世界でも、具体的な『依存』の形として三帰依の概念があることは否定できません。けれども三帰依をしたからと言って、だらしのない生き方をする仏教徒でも、包み込んで完全に守ってもらえると思うのは単なる迷信です。公園で子供が自由に遊び回ると、見守っている親に「完全に守ってあげたい」という気持ちがあっても守りきれないものです。けれども、真剣に勉強する生徒を先生が全面的に指導する、応援することはできます。三帰依のはたらきはこれに似ています。三帰依は一時的に不安を解消するのではなく、何にも頼らない自由なこころを育てるための最初の一歩です。
妊娠していたことに気がつかなかったある女性が出家して比丘になりました。戒律を犯していないことが判明したので彼女は修行を続けることができたのですが、子供に会いたくて悩んでいました。12年目のある日、出家して悟りを開いた我が子に出会って、彼女は失神してしまいました。息子から最初に言われた言葉は「あなたは他人(息子)に頼るのではなく自分に頼りなさい」というものでした。
今回のポイント
- 人は常に何かに頼り、何かを信じる。
- こころに不安がある限り信じる癖は消えない。
- 頼りたがる気持ちを乗り越えるべきです。
経典の言葉
- Attā hi attano nātho – ko hi nātho paro siyā,
Attanā va sudantena – nāthaṃ labhti dullabhaṃ. - 自分こそ自分の頼りである。
他人がどうして頼りになるだろうか。
自己をよく整えたならば得難い頼りを得るのである。 - (Dhammapada 160)