パティパダー巻頭法話

No.83(2002年1月)

論より正悟

仏法は思考のゲームではありません 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「立ち上がれ、努力せよ、怠るなかれ」というお釈迦さまの言葉があります。お釈迦さまは当時の他の宗教家たちや観念的な理想ばかり語る夢想家たちと違い、目的に達するため、実際に行動を起すことを重んじる方でした。理想を論じるばかりで何も実行に移さない場合、人間には何の成長もありえないのです。
仏教は、現代知識人にとって『知識遊び』とでも言うべきゲームの一つになってしまっているのです。ゲームをする人にとって、「ああ、気持ち良かった」という結果だけで終わるのです。そのゲームに費やした時間に相当する具体的な成果は、何一つ上がらないのです。しいて言えば、「時間の無駄」ということになります。

確かに仏教は、論理的かつ合理的に語らう世界です。思想家、哲学者、論理好きな人にとっては、どこまでも考察し追究できる内容に溢れています。それゆえに仏教を研究する人々が、あらゆる角度で仏教思想を考察し、そこから発展させて新しい思想体系まで作り上げたのです。「いったい仏教とは何なのか」と皆目わからなくなるまで、仏教思想は互い違いの複数の思想体系に発展しました。しかし微細に精密に緻密に論じて膨大な思想体系を作っても、「それで人の苦しみがひとかけらでも無くなりますか」という疑問が生じます。結局このような思想体系の煩雑化はお釈迦さまが望んだ道ではなかったのです。

本来の仏道は、人の悩み苦しみを無くして平安な境地に達することを目指す、実践的な道でした。当時のインド人も、人間の苦しみについて宗教・精神・政治・学問などの側面で考えていたのです。お釈迦さまはそういった思考に耽ることをやめ、求道のために王位を捨ててまで出家したのです。富と贅沢な生活を全て捨て、一文も持たない乞食の生き方を選んで、かつて誰にも発見することができなかった、苦しみを無くす道を発見したのです。仏陀の生涯そのものが、いかにお釈迦さまが実践的であったかを物語っています。

当時の宗教家たちには、覚醒者を一人も輩出することはできなかったようです。ある日、コーサラ王が仏陀にこのように尋ねたことがありました。「カッサパ、ゴーサーラ、アジタ、パクダ、サンジャヤ、ナータプッタの六大師たちはゴータマ(お釈迦さま)より年上で大勢の信奉者たちもいて大変有名ですが、彼らのうち一人もブッダと自称していません。あなたはまだ髪が黒々としている若者なのに、なぜブッダと自称しているのですか。」
お釈迦さまは、「苦しみを乗り越える道を発見し、それを実践して苦しみから完全に脱出して解脱を得ました。それゆえにブッダと自称しているのです」と答えました。お釈迦さまは、布教活動を始めて間もない頃から大勢の覚醒者たちを輩出し始め、涅槃に入る直前に至ってまでも、一人の人を解脱へ導いたのです。

仏教は論ずるためのものではない。他の思想を打ち破るための道具でもない。「私は知識人だ、もの知りだ」と自慢するための肩書きでも、『知識遊び』という暇潰しのゲームでもない。しかし実際にまかり通るのは、花よりも団子に惹かれる生き方です。人々は瞬間瞬間悩み苦しみに明け暮れて出口も見つからず、無明という暗闇でもがいているのです。一刻でも早くこの苦しみから脱出し、心の平安を獲得するべきです。病いを自覚する人は、治療を後回しにはしないのです。

『真理(dhamma)』というと、実践派でない我々は何か頭で理解するだけの教えと思いがちです。しかしお釈迦さまは、「真理を実践しなさい」と私たちを戒めているのです。ただ、実践に臨む前に教えを明確に理解しておくことは必須の条件です。自分が何をしているのかという自覚がないと、良い結果を得ることは期待できません。仏陀の教えを理解して納得することが、実践の最初の一歩です。

たとえば、危険な所にいる人が安全で豊かな場所へ行きたい。その人はまず、その場所を地図で調べて理解しなくてはなりません。しかし机の上で幸福な境地の地図を調べるだけで終わってしまうと、一向に平安な地には辿り着けません。そのように仏教思想を考察するだけで精一杯だと、その人の苦しみは結局そのままです。その人自身も自発的に仏教を学ぶ人々も、仏教を研究することによって心の安らぎを得られないことで、「仏教も世にある様々な思想の中の一つに過ぎない」と思いこむ。あたかも、重病人が特効薬を手にしているにもかかわらず服用することを拒むようなものです。

真理は思想でも概念でもありません。人々は世について生命について、種々雑多なことを考えて概念を作るのです。この概念というものは、人それぞれの見方や考察能力によって変わるのです。ですから、世の中に多種の思想・哲学・宗教などが現れるのです。たとえば、「生命は神によって創られた。神は創造主で、生命と世界を自分と別なものとして創られた」「神そのものが現象の世界として現出している。故に神も現象の世界も同一のものだ」「世界と生命が自然に発生し、進化発展した」等々、互い違いの考え方が現れるのです。

真理であるならば、異なる見解は成り立たない筈です。(例:地球は丸い。これは事実でそれについて異論が生じる余地はあり得ません。)
しかし、何かについて「考える」場合はいくらでも異見が派生するものです。(例:パンは食べ物です。しかしパンについて考えると、パンは美味しいという人も嫌いだと言う人もいます。毎日でも食べたい人も、週一回だったら美味しいと思う人もいます。パンは主食だと思う人も、副食だと思う人もいます。このようにいくらでも、異見が派生するのです。)

異なる見解があるということは、真理は未だ知られていないということになります。見解を出す人は、自分に正直に「真理」を語っているつもりです。それについて異論を発する人も、正直に「真理」を語っているつもりです。しかし、双方とも真理を発見していないから異見が生じてしまうのです。ですが残念なことにその結果として、人と人が分かれ、論争し、戦い、憎しみ合い、力ずくでも相手の意見を抑えることになるのです。世の中の全ての戦争、争い、諍いなどの原因は、人が自分の見解に縛られていることなのです。見解と執着はセットです。
真理を知ると、全ての争い、諍い、対立が終息します。一切の疑が消え、心が落ち着き、苦しみが消えます。「考えると見解が生じ、実践すると真理を発見する」のです。

今回のポイント

  • 仏教は実践するために語られたものです。
  • 真理とは事実であって、見解ではありません。
  • 異見がある場合は、どちらも正しくありません。

経典の言葉

  • Uttitthe nappamajjeya – dhammaṃ sucaritaṃ care,
    Dhammcārī sukhaṃ seti – asmim loke paraṃ hi ca. (Dh.168)
  • 奮起せよ。怠るなかれ。よく真理を実践せよ。
    真理を実践する者は、この世でもあの世でも幸福になる。
  • Dhammaṃ care sucaritaṃ – na naṃ duccaritaṃ care,
    Dhammcārī sukhaṃ seti – asmim loke paraṃ hi ca. (Dh.169)
  • よく真理を実践せよ。間違ったことをしてはならぬ。
    真理を実践する者は、この世でもあの世でも幸福になる
  • (Dhammapada 168,169)