パティパダー巻頭法話

No.88(2002年6月)

「後悔」は美徳ですか?

非難の視線は自分に返ってくる Do not repeat your faults

アルボムッレ・スマナサーラ長老

アングリマーラ尊者のエピソードは、これまでにも何度かお話ししました。アングリマーラ尊者はKosala王の相談役だったGagga大臣の息子として生まれました。生まれてまもなく父親が占ってみたところ、この子は大変な殺戮者となって国を荒らすであろうということがわかりました。王様にこのことを報告したところ、王様は、「彼はひとりで暴動を起こすのか、それともグループで起こすのか」と尋ねました。父親は、「完全に単独で行動する人間です」と答えました。王様は、常々自分へのアドバイスをくれる師に免じて、また、これほどの大国で一人くらいはなんということもないと考え、「生かしておきなさい」と言ったのです。父は期待を込めて息子に『アヒンサカ』(生命に優しいの意味)と名づけ、学問に出しました。アヒンサカはとても行儀が良くて頭も良く、学校の先生には我が子のように可愛がられました。しかしそのため、同級生たちの嫉妬を買い、嫉妬した生徒たちは嘘の噂を流して、先生の気持ちをすっかり変えてしまったのです。

怒りに狂った先生は、自分の手を汚さずに彼を殺そうと企んで、アヒンサカに言いました。「私は、神の供養のため、1000人の命を神に差し上げると約束した。私の代わりにそれをやってくれ。君に教育を与えた礼として」。目上の人の話を真面目に聞くアヒンサカも、この話は断ったのですが、やらなければ教育が身につかないと脅され、納得させられたのです。それから彼は山にこもり、人殺しを始めたのです。そして殺した人の指を一本ずつ集め、輪に通して首にかけました。アングリマーラ(指でつくった首飾りの意味)というあだ名はここから出たものです。彼はコーサラ王国を脅かす殺戮者となりました。アングリマーラを取り押さえることは、王様の軍隊にさえできませんでした。後に、999本の指の首飾りを持っていた彼は、仏陀に出会って出家し、悟りを開きます。

完全に罪から逃れた彼は、その心の平安を讃え、「人は罪を犯しても、後にそれを善で覆うならば、雲から出る月の如くこの世を照らす」と、偈を唱えました。

仏教は、犯した罪に対して後悔することは認めません。後悔するたびに罪の重さは倍増するのです。後悔するたびに、犯した罪のイメージが頭の中で再現されます。「嫌なことをしてしまった、やってはいけないことをやってしまった、私は罪人だ」云々と考えると、心はどんどん暗くなり、落ち込んでいきます。マイナス思考ばかりが増えるのです。結果として、自己破壊になるのです。後悔は『怒り』だと仏教では言います。後悔する代わりに、犯した罪が取り消されるよう、たくさん善行為をすることが正しい対処法です。

『反省』という日本語があります。「反省だけならサルでもできる」と茶化したりしますが、ジョークを通して「積極的な行動をすべきだ」と暗示しているのです。仏教用語は『反省』ではなく『懺悔』です。悟った人以外には、罪を犯さない人はいません。しかし自分のことは棚に上げて、人の過ちを徹底的に非難する人は多いものです。人をけなすと、自分が優位に立っているような錯覚に陥るので気持ちがいいのでしょう。他を非難することで「私は正しい、完璧である」と言わんばかりです。しかしこの行為は、非難される側の罪よりさらに重い罪になります。慈しみに基づいて、論理的に話し、人の過ちを正せるような批判は必要ですが、非難は罪です。ところかまわず他を非難する人は、日頃気にするほどの罪を犯したことがなくても、非難自体が立派な大罪となっているのです。

私たちは皆、日々、気づかないうちに何か悪いことを必ずしていると思って生活したほうがよいと思います。そうすると傲慢な態度がなくなって、謙虚に、よく気をつけて生活することになるでしょう。「過ちを犯すかもしれない」という緊張感がないと、どんな人間でも危険な存在になり得るのです。朝晩、謙虚な心、正直な気持ちで『懺悔』をして生活する習慣を身につけなくてはならないのです。

反省だけではだめだということと同じく、「懺悔したから」といって開き直って、日々わがまま奔放に生活するならば、何の意味もありません。全く罪滅ぼしになりません。ここで必要なのは「いま犯した過ちと『同じ』過ちを二度と犯さない」という決意です。「二度と過ちを犯さない」ではありません。その違いがなかなかわからない人が多いのですが、その『決意』は、犯した罪の悪果を軽減してくれるのです。

「悪行は後に善行為で覆えばよい」という話がありましたが、それも簡単なことではありません。輪廻転生する限り、業は結果を出さずには消えないのです。たくさん善いことをしたから罪はチャラになる、と思うのは甘いのです。ただ、行った善行為がありすぎて、輪廻転生するときに、そちらの結果を受けている間は、犯した罪に出番がなくなる可能性はあります。

悪行を犯した人は、懺悔をして、なぜ罪を犯したかを観察するのです。そうすると、貪瞋痴に操られて罪を犯したことを発見します。貪瞋痴がある限り、「二度と同じ過ちを犯さなくても、別な過ちを犯す恐れがある」ということが確かだとわかるのです。それがわかれば、修行に励んで、貪瞋痴を心から根こそぎ取り除くことになるでしょう。その修行こそが、すべての善行為の中で最高の善行為です。そして初めて、「過ちを犯さない人間、完全な人間」になるのです。それからは輪廻転生しないので、過去の業がいくら待ち構えていても出番がありません。悟りを開くことだけが完全なる罪滅ぼしとなるのです。

今回のポイント

  • 人は過ちに対し、後悔ではなく懺悔(反省)すべきです
  • 過ちを犯す人間が他を非難することは大罪です
  • 悟らない限り、善いことをしても罪は消えません
  • 一切の罪の原因は貪瞋痴です
  • 己の心の中の貪瞋痴が己の敵です

経典の言葉

  • Yassa pāpaṃ kataṃ kammaṃ – kusalena pithīyati;
    So imaṃ lokaṃ pabhāseti – abbhā mutto’va candimā
  • 以前には悪い行いをした人でも、のちに善によって覆い抑えるならば、
    その人はこの世の中を照らす。雲から出た月のように。
  • (Dhammapada 173)