パティパダー巻頭法話

No.93(2002年11月)

人の認識はあべこべです

目指すべきは意識革命 Human life is a network of contradictions.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

知っていますか? 人々は本当に価値あるものに価値がないと思い、価値がないものに価値があると思う。評価すべきものは評価せず、批判すべきものを賞賛する。意味あるものは無意味だと思い、無意味なものに意味があると思ってしがみつく。

「私はそんなことはしていない」と思われるでしょうが、実はそうではありません。皆同じです。真理をありのままに知ることができるのは、悟りを開くときだけです。ありのままに物事を観て生活するのは、悟った方々です。悟りという認識革命を起こしていない限り、我々の認識はあべこべです。仏教用語で顛倒(vipallāsa)といいます。

すべてのものは無常です。しかし我々は、すべてが変化しないもの(常)だと勘違いして、ものに執着したり、あらゆる計画を立てたり、期待、願望、切望したりします。期待がはずれたら悩み苦しみが生まれるのに、一向にめげない。それで苦しみが続くのです。体は不浄なものなのに、とてもきれいなものだと思って、限りなく苦労する。自分というものには実体がなく、あらゆる部品で一時的に組み立てられたものなのに、それも常に変わっていくのに、「自分という実体がある」と思い込んでいる。皆、死んでしまうのに、絶対認めない。死なないという前提で生きることは、やりきれないほど苦しいことなのに、ありのままの事実を認めない。

このように認識があべこべだから、価値観もあべこべです。死にものぐるいで勉強して知識を得ても、金を儲けて財産を築いても、贅沢に溺れていても、死ぬときにはすべて捨てるのです。生きているというプロセスは、持つ者にも持たざる者にも同じです。持つ者には持つことで苦しみが生じ、持たざる者には期待で苦しみが生じます。

お釈迦様に、Anātha Pindika(アナータ ピンディカ)という在家信者がいました。彼ほど仏法僧にお布施した人はいなかったのです。資産家で商人でしたが、彼は、財産を儲けるより、こころ清らかにすることの方が絶対的に大事だと思っていたのです。悟りの第一ステージ(預流果/sotāpatti)に達していました。

彼には、息子が一人いました。すくすく育つどんな子もするように、親に反抗し、外で元気いっぱい遊びまわっていました。これぐらいはごく普通のことなので、父親は見守っていたのです。

しかし、息子の価値観はまったく俗世間のもので、誰もがやっていることをやりたがり、皆が評価するものをかっこいいと思う。お布施したり、説法を聞いたり、仏陀のお世話で忙しい父親に対しては、これほど財産があるのに遊ばないのがバカに見える。

真理を知る父親は、そろそろ子供にも正しい価値観を教える時期だなあと思って、息子に言いました。「おまえ、一日お寺へ行って修行してくれるなら、千両あげるぞ」。息子には、想像できないほどの大金です。これくらい金があったらどれほど遊べることかと頭が夢でふくらんでパニック状態になりました。「本当にくれるのですか」。父と約束を交わして、お釈迦様の住んでいるお寺へ行って、一日中ぼーっとしたり寝たりして、退屈に過ごしました。次の朝お金をもらって、思う存分遊びました。性格は変わらなかったのに、またある日、父親は同じことを言いました。しかし、結果は同じでした。お金がありすぎて、息子はよくなるどころかさらに不良になりました。お金の無駄遣いをして、金で苦労している時期を見計らって父親は、息子に言いました。「今度は一日修行しなくてもいい。仏陀の教えを一言覚えてきなさい。千両あげます」。息子もそれほどバカではなかったので、一言くらい2-3分で覚えて帰れそうと思って飛び出していきました。

釈尊は説法していました。「これを覚えてやる、これを覚えてやる」と話を聞いていました。しかし、論理的に順番に内容が進んでいくので、もっと気のきいた言葉を覚えてやると思っているうちに、最後まで説法を聞く羽目になりました。仏陀の一言一言は彼にとって、とても興味深かったのです。彼は実に簡単に意識革命を起こしたのです。預流果の位に悟りを開いたのです。

息子はお釈迦さまに感謝しなくてはいけないと思い、お布施するために家に連れていきました。お釈迦さまに礼をした父親は、お布施より先に、息子に金が入った袋を渡しました。お釈迦さまの前で息子はあまりにも恥ずかしく、赤面して、下を向いたまま手を出しませんでした。釈尊は、「この子に恥をかかせるな。この子は地球を支配する帝王になるよりも、天国に行くよりも、すべての生命の支配者になるよりも価値ある財産を持っている」とおっしゃったのです。天人師たるお釈迦さまに正しい道を教えられ、尊い人物に育てられたことは、父親にとってこの上ない喜びでした。

戒律を守ると制限がありすぎて面倒くさい、瞑想するヒマなんかない、と思うときは、俗世間の娯楽に溺れることが優先しているときです。悩み、苦しみ、切望、戦い、憎しみ、落ち込み、いらだち、鬱、自信喪失、不眠症、ノイローゼ等々は、どこから生まれるのでしょう。それはすべて、俗世間の価値観に操られているからではないでしょうか。しかし人は、この事実を認めたくないのです。「商売繁盛、病気治癒でもするというならば、瞑想でもしてみます」という気持ちでいるのです。このような気持ちで修行しても、平安は得られないに決まっているのです。

一日中、悩んだり、無意味な妄想をしたり、ストレスを発散するために酒を飲んだりテレビを見たりしてさらにストレスをためるよりは、ヴィパッサナー実践か慈悲の実践でもして、穏やかで平安なこころをつくることの方が何よりも人間にとって幸福なことです。他人の短所ばかりを見て、怒り、憎しみを蓄積して、戦いに挑んだり、戦争を正当化したりするよりは、苦しんで生きているすべての生命に対して優しい気持ちを育てることの方が、人間にとって幸福です。

我々は、意識革命を起こさない限り、あべこべの認識で生きているのです。このような生き方では、平安が訪れません。意識革命をしない人に待っているのは、ますます増えていく悩み苦しみの悪循環です。

今回のポイント

  • 俗世間の価値観はあべこべです。
  • 仏道から得られる幸福は何にも比べられません。
  • 仏陀は意識革命を説きます。

経典の言葉

  • Pathavyā ekarajjena – saggassa gamanena vā,
    Sabba lokādhipaccena – sotāpatti phalaṃ varam;
  • 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、
    全生命を支配する権力者となるよりも、預流果を得ることの方が優れている。
  • (Dhammapada 178)