パティパダー巻頭法話

No.102(2003年8月)

明日を楽しめる保証はない

まだ欲しいのに賞味期限は切れている Wealth does not compromise with happiness.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

貴方は、どれくらいお金があれば充分満足しますか。どれくらい健康で体力があれば満足しますか。どれくらい美しければ充分だといえるでしょうか。これらは、誰にもはっきりとは答えられない質問です。そう言われると、答えてみようという気持ちになるでしょう? しかし無理だと思います。

ある人は、五千万円くらいあれば自分の余生を過ごすのに充分だと言うかもしれません。しかしもし、予測できなかったような事が起きたら? 自分の子供が突然問題でも起こして、大金が必要になったりしたら? …と相手に質問を投げかければ、五千万円という金額に疑問を抱くようになるでしょう。明日どうなるのかというのは、未知の世界です。明日の不安が心をよぎると、「どれくらいあると満足ですか?」という問いに答えられなくなります。

また、どれくらい音楽を聴けば満足できるか、どれくらい美味しいものを食べれば満足できるかと聞いても、答えは分からないのです。これは、明日のことを心配しているからではありません。好きな音楽でも、ずうっと聴いていると飽きてしまって、違うものが聴きたくなるのです。ご馳走の場合でも同じです。如何なる好物であろうとも、食べ続けると飽きてくる。違うものを食べたくなるのです。飽きると言っても、二度と要らないと言えるような飽き方ではない。一旦飽きた音楽も、時間が経てばまた聴きたくなる。飽きたご馳走も、また食べたくなる。そういう訳で、どれくらい音楽を聴けば満足できるかと問われても、答えは存在しないのです。このような状態を、「感覚の一時的な麻痺」とでも呼んでおきましょう。

将来に対する不安は、簡単には解決できません。一切の物事は無常なので、明日は確実にこのようになると断定できないからです。だからといって、物事はランダムに変わるわけではない。変化する過程には法則があります。それを見いだせば、将来に対する不安が消えます。しかしこの法則の発見で、万々歳の気持ちになれるわけではありません。人は誰でも、将来を美しく明るく夢見がちです。しかし、それは事実ではなく、単なる主観的な感情から生まれる妄想なのです。自分に対する、また他人に対する法則とは何でしょうか。人は瞬間瞬間、年を経て衰えてゆく。体力、能力、美貌などは減少し消えてゆく。鋭敏な感覚が、ジワジワと鈍磨してゆく。そうなると、いくら美しいものに囲まれていても、退屈で堪らなくなる。そして最後には全てを捨てて、否応なしに死を迎えなくてはならない。明日とか将来とか呼ばれるものは、このような法則で変化してゆきます。事実は、我々が当然と期待して夢見る将来とは、まるで反対です。こんな法則を発見したって、失望して落ち込むだけでしょう。

だからといって、事実に背くことは大変危険です。妄想の中で生きることは、自分と他人の不幸のおおもとです。妄想に陥らず、理性で物事を観るならば、ありのままの事実をありのままに(自分の希望のままではなく)観るならば、落ち込むことはあり得ません。かえって落ち着くのです。

では感覚が麻痺する問題はどうすれば良いでしょうか。これもたいへん大きな問題です。冷蔵庫を開けてみれば、一、二年前の食べ残しが見つからないとも限りません。食べている時は満足してストップするが、残したものを「また明日」と思って冷蔵庫に放り込むのです。結局、冷蔵庫は何も入らないほど一杯ですが、食べられるものは何もない状態になるのです。十年ほど住んでいたアパートを引っ越しすることになったら、大型トラックが必要になるかもしれません。そのアパートに入居したときは、鞄一つだったのに。あれも必要これも必要、あれも欲しいこれも欲しいと思って、自分が住む環境をどんどんゴミの山にしてしまう。「いま要らなくても、いつかは必要になるかも」という考え方から抜けられないのです。

刺激に対して感覚が一時的に麻痺する現象は、このような問題を引き起こすのです。人はいくら食べても、いくら遊んでも満足しない。もっと欲しいと思う。昔も今も、俗世間の喜び、快楽などは、財産がなければ得られません。それで皆、無我夢中に財産をため込むことに励むのです。いくらでもあるに越したことはないと思い込んで、ゴールがないマラソンを走っているのです。財産を貯め込んだ人は、それを使う暇をまったく持てずに、全てを残して死ぬ。財産を得ることで人生を思い切り楽しむ計画を持っていたはずなのに、何一つ実現できず、苦しむだけで人生を終えてしまう。残した財産のゴミには、相続人たちがハイエナのように群がって、互いに憎しみあって喧嘩して、余計な苦しみを味わうのです。財産を貯め込むことで楽しみを得る人は、いったいどこにいるのでしょうか。他人の財産を相続する人は、幸福・快楽を相続するのではなく、前の持ち主の苦しみを相続するだけなのです。

いくらあっても足りないという感情によって、世界は略奪行為の罠にはめられています。皆が幸せになるのではなく、貧富の差が激しく二極化している。「世界平和」というのは、一度も実現したことがない神話です。その一方で戦争は常識なのです。たくさん殺戮を犯した人が英雄として崇められ、平和を語る人は臆病者として侮られる。大自然も取り返しのつかないところまで破壊してしまっているのに、「もっと欲しい気持ち」を捨てない。人は自分で適度に楽しめるくらいの財産を得て、満足すべきなのです。それしか道はありません。

今回のポイント

  • 欲しがる気持ちにはリミットがありません。
  • 財の増進は苦の増進でもあるのです。
  • 財産と幸福は折り合わないのです。

経典の言葉

  • Na kahāpana vassena – titti kāmesu vijjati;
    Appassādā dukhā kāmā – iti viññāyapandhito.
    Api dibbesu kāmesu – ratim so n’ādhigacchati;
    Tanhakkhaya rato hoti – sammā sambuddhassa sāvako.
  • 貨幣の雨が降っても欲望は満たされない。
    「欲は楽しみが少なく苦しいものである」と知る賢者は、
    天上の楽しみさえも期待しない。
    正覚者の弟子たちは欲を無くすことを楽しむ。
  • (Dhammapada 186-187)