No.103(2003年9月)
お守りは不安の泉
理性を育むと迷信は消える Rationality supersedes superstition.
世の中に、お守りは色々あります。お守りは、学問成就、無病息災、商売繁盛、家庭円満などを約束しています。学問成就、無病息災、商売繁盛、家庭円満などは、この世の中で生きている我々にとっては必要に決まっている。ですから私たちもよく効くお守りを探し回ります。よく効くお守りを買うことができれば、なおさら幸福でしょう。
神社、仏閣、教会、宗教は何であろうとも、世界中いたるところで、お守りを売ったり配ったりしているのです。ひとつのお守りで希望が叶うならば、もうひとつ買う必要はなくなります。次から次へとお守りを買うということは、そのお守りの効き目がそこそこか、まったくないか、ということになります。車のフロントガラスを半分くらい埋め尽くすほど、交通安全のお守りを吊っている車も時々見かけます。お守りが事故を起こさないように守ってくれるよりは、お守りに邪魔されて前がよく見えなくなって、ありがたく事故を起こしてくれる可能性もないとはいえません。人間の期待に比例して、お守りの種類も増えるのです。子宝に恵まれること、安産、縁結び、縁切りなどのお守りもあります。現在は I T 時代ですので、パソコンがウィールスから守られるように、ハッカーに侵入されてデータが盗まれないように、というお守りも作った方がいいのではないかと思います。
お守り、お札は、身につけたり家に置いたりするものですが、場所に霊験のある場合もあります。その時は、自分でその聖地を参拝し、祈願を立てなくてはいけないのです。聖地といえば、またいろいろあります。山、岩、湖、川、島、森、木などです。島を巡礼して祈願を立てる、聖なる山に登って祈願するなど、ありますが、その場合は本州くらいの島では困るので、四国にした方がいいと思います。山の場合は、車で行ける高野山はよいのですが、エべレストが学問成就してくれる山でなくてよかったと思います。幸福をもたらしてくれる食べ物もあります。年越しそば、赤飯などは心配ありませんが、トリカブトを食べたら万病に効くという信仰が現れたらどういたしましょうか。聖なるパワーで病気を治してくれる聖人たちも世にはおられますが、その方が病気に倒れて病院に運ばれたときには、病気を治して欲しくて待っている信者さんは、その聖人が退院するまで、自分が死なずに頑張らなくてはならないのです。
仏陀の立場から見ると、これらはあてにならない非合理的な迷信に過ぎないのです。しかし、人が迷信に頼ることは、これからもなくならないと思います。皆、将来は不安です。これから先、どうなるのかわからないのです。受験しても合格できるか、商売しても繁盛するか、今健康だからといっていつ脳出血で倒れるか、わからなくて心配なのです。このように、余計に自分のことや家族のことを心配すると、不安、恐怖感で滅入ってしまうのです。そうなると、お犬さま、蛙、フクロウ、狐、猿……誰でもいいから祈りたくなるのです。頼りたくなるのです。「祈り」は、人の不安、弱み、非合理性の表れなのです。
人はしっかりすればよい。ものごとを客観的に合理的に考えればよい。学問の神様に願を掛け、試験に合格してやるぞなんて、裏から手を回そうと思わないで、自分の力いっぱい勉強すればよい。商売しても、繁盛したり繁盛しなかったりするもの。波があるのです。家族をいくら大事にしても、夫婦喧嘩は起こります。今、皆に好かれていても、嫌がられることもあります。人生は波なのです。(人生の波については、パティパダー2003年3月号3~5ページを参照)裏に手を回して、それらから逃げようとしても、それは単なる気休めです。かえって、悪い時期を乗り越える勇気と自信が失われる結果になります。常に理性を保って、明るいこころで生活すれば、人生の波に耐えることができるのです。
人生の波に耐えることができても、こころの不安は完全には消えません。気が弱くなった途端に、負けてしまうこともあります。幸せに生きていきたいと思う人にとっては、人生の波にたまたま負けても、正直なところ、悔しくなると思います。仏陀とその教えを理解してそのとおりに生きることです。決して人生の波に負けることはありません。
しかし、こころの不安は完全に消してしまう必要があるのです。それには智恵を開発することです。先がわからなくて不安になり、迷信に走るという段取りは、物事を観察できない無知な人の生き方です。具体的に自分の置かれている状況を観る人は、迷信に走らないで、自分で努力するのです。それは智恵の働きです。すべてのものごとに対してありのままに観られる智恵を開発すれば、こころの不安は完全に消え去るのです。
完全な智恵というのは
「一切は無常である」 (Sabbe sankhārā aniccā)
「一切は苦である」 (Sabbe sankhārā dukkhā)
「ものごとには実体はない」 (Sabbe dhammā anattā)
という真理を発見することなのです。
それには、ものごとを客観的に観察するというヴィパッサナー手法以外はないのです。また、人生は不完全で不満に満ちているものです。渇愛は苦しみの生みの親です。渇愛から離れると、平安が訪れる。そのためには、八正道を実践しなくてはいけない。この四聖諦に目覚めると、こころの不安は完全に消えるのです。
今回のポイント
- 人生に脅える人は迷信に依存する
- 希望が現実離れすると祈って叶えようとする
- 具体的にものごとを観察しないと希望を叶えることはできない
- 仏陀の真理を理解すると一切の不安が消える
経典の言葉
- Bahum ve saranaṃ yanti – pabbatāni vanāni ca:
Ārāma rukkha cetyāni – manussā bhaya tajjitā - 恐怖に追われている人々は、山々、林、聖地、樹木、霊場など多くのものに頼る。
- Ne’taṃ kho saranaṃ khemaṃ – ne’taṃ saranaṃ uttamam;
Ne’taṃ sarana māgamma – sabba dukkhā pamuccati. - しかしこれらは、安らぎを得られる頼りではない。
優れているものではないこれらに頼っても、
すべての苦しみから解脱することはできない。 - Yo ca buddhañca dhammañca – sanghañ ca saranamgato;
Cattāri ariya saccāni – sammappaññāyapassati. - 人が、仏法僧に帰依して正しい智恵で四聖諦を観察する。
- Dukkhaṃ dukkha samuppādaṃ – dukkhassa ca atikkamam;
Ariyaṃ atthangikaṃ maggaṃ – dukkhūpasama gāminaṃ. - すなわち、苦しみ、苦しみの原因、苦しみの終滅、苦の終滅に導く八正道。
- Etaṃ kho saranaṃ khemaṃ – etaṃ sarana muttamam;
Etaṃ sarana māgamma – sabba dukkhā pamuccati. - これこそ、平安をもたらす頼りである。
これこそ、優れた頼りである。 - (Dhammapada 188-192)