パティパダー巻頭法話

No.105(2003年11月)

幸福がこぼれ落ちる理由

凡人は不幸を幸福だと定義する Why happiness lurks in dark?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

幸福というのは、いったい何なのでしょうか。楽しみ、しあわせという場合は、何を意味するのでしょうか。愉快、快感、極楽のような言葉を使うときは、一時的な気持ちを表しますので理解しやすいのですが、幸福、安らぎというと、具体的に何を意味するのか、曖昧であまりわかりません。しかし、幸福になりたいと誰でも切望するのです。それが何かとわからないと、幸福を実現することはできるはずがないのにです。私たちは何を期待して生きているのか、できることならはっきりしたほうがいいのではないかと思います。

幸福に対する一般論を考えてみましょう。一番先に出てくる考えは、財産に恵まれることです。わかりやすくいえば、お金がいっぱいあることです。ほとんどの人は、お金がいっぱいあったら幸福だと思います。しかし考えてみると、ちょっと変だなと思いませんか。お金があっただけでは何にもなりません。全く使わず貯めておくと、社会から白い目で見られるし、他人に奪われる恐れもあります。その人は、財産を守ることに苦労しなくてはいけなくなります。では、上手に使えば最高に幸せではないかと思われるでしょう。それなら、幸福は財産ではなく、財産を通して得られる別なものになります。財産が幸福なのではなくて、幸福をもたらす道具ということです。ですから、お金がいっぱいあることが幸福だというとおかしいのです。ナイフとフォークがとても美味しいというようなものです。これは、美味しい料理を食べる道具にすぎないのです。

あらゆるものを勉強し、知らされていないものを研究したり発見したりして、知識人になって大変満足している人々がいます。自分の人生は幸福だと、その人は思うのです。確かに、知識を得るときに快感を感じる場合もありますが、大体は勉強したり研究したりすること自体は大変疲れる行為なのです。頭の中に知識をため込んだだけでは、幸福は感じません。その知識を社会に発表したり、社会の役に立てたり、社会に認めてもらったりしない限りは、「あの人は勉強ばかりしている変わり者だなあ」と言われる結果になるだけです。この場合も、知識が幸福なのではなく、幸福をもたらす道具であることがわかります。

また一部の人々は、権力を握ること、他人を支配することを幸福だと思って、他人の迷惑などかえりみず努力するのです。皆が自分の命令に従うと、あるいは皆におだてられると、権力者は気分がいいのです。また、苦労もせず財産も流れ込んでくるかもしれません。しかし権力者が感じる「私は偉いのだ」という気分を幸福だとするならば、権力自体が幸福だとは言えないのです。それは、良い気分を感じるための道具なのです。おかしなことに権力者は誰よりも不安を感じます。恐怖感を感じるのです。権力の座から落とされる、誰かに足を引っ張られる、誰かに暗殺される恐れが絶えないのです。自分の管理能力が弱くなった時点で、権力というものは泡のようにはじけるのです。それは、多大な苦労を幸福だと言い違えているだけではないでしょうか。

美しくなりたい、健康でいたい、長生きしたい、皆に好かれたいという概念もあります。これらは何であろうと、それ自体が幸福ではありません。幸福の道具にすぎないのです。たとえ豪華なものであろうとも、ナイフやフォーク、その他の食器などは、ご馳走だと思わない方が利口だと思います。

幸福に対する一般論には、もう一つ問題があります。幸福の概念には普遍性がないのです。財産に恵まれること、権力者になること、美しくなること、健康で長生きできることなどは、一部の人々にできても、万人には実現できないものです。そうなると社会の多数の人間が不幸でいることは、よい、仕方がない、かまわない、という立場を取ったことになるのです。言い換えれば、誰かが不幸にならないと、誰かが幸福にならないということになります。ですから、幸福に対する一般論は、正しいといえないのです。

なぜ人は、そんなにも幸福を期待するのでしょうか。皆、ひたすら幸福になりたいと切望するだけで、なぜそのような気持ちになったのかを観察しません。答えは簡単です。「今の時点では、私は幸福ではありません。だから、幸福を期待しています」ということです。幸福とは、未だ手に取っていない抽象的な概念にすぎないのです。しかし、今味わっている不幸、不満、苦しみはとてもリアルなものです。現実的なものは、観察も、研究も、理解も、簡単にできるのです。またその原因も発見できるのです。不幸になる原因を見いだせば、それをなくすためにどうすればよいかと考えることもできるのです。不幸をなくすことが幸福だというのは、とても現実的な話です。また、すべての人が不幸を感じているので、この方法で万人が幸福になることもできるのです。しかし凡人は、この話は抽象的だと思って無視するのです。「やっぱり現ナマだ」と思っているのです。聖者(仏陀)の思考では、苦を断つことが万人に実現できる究極的な幸福なのです。

苦を断つといっても、その方法は凡人には発見できそうもありません。俗世間の歪んだ思考で、理性は曇っているのです。生きることが苦だとわかっても、それはなぜなのか、どうすればよいのかはわかりません。神々、人間を含む、全ての生命に幸いなことに、釈尊がその真理を発見したのです。悟りを開いたのです。この世に仏陀が現れることこそ、全ての生命に幸福なことです。仏陀が、幸福になる道を皆に教え諭すのです。だから仏陀の教えも幸福なのです。この世で何を勉強しても、苦は増すばかりです。仏法を学ぶことで、こころは安らぎを感じるのです。もしも人間が、仏陀の教えを学ぶ目的で仏弟子(サンガ)になったならば、また彼らが仲良く和合を保って、互いに協力しているならば、世界にこれほど幸福なことはありません。皆仲良く仏陀の道を歩むなら、皆確実に幸福になるので、仲良く修行することも真の幸福なのです。

今回のポイント

  • 幸福とは何か、誰もわかっていない。
  • 楽しみの道具を幸福だと勘違いしている。
  • 苦を増す道を幸福の道だと凡人は思う。
  • 不幸になる原因を断つことが幸福なのである。

経典の言葉

  • Sukho buddhānaṃ uppādo – sukhā saddhamma desanā;
    Sukhā sanghassa sāmaggī – samaggānaṃ tapo sukho.
  • 仏陀の現れは幸福です。仏法を語ることは幸福です。
    サンガが和合しているのは幸福です。仲良きものの修行も幸福です。
  • (Dhammapada 194)