No.122(2005年4月)
美しく燃える欲の炎
性欲は危険と苦しみにかぶる目隠し Lust is a fire storm.
「好き」という人間の感情について、続けて説明したいと思います。
この概念を明確に理解すると、生命のからくりが明らかになるのです。「好き」と言えば、反対に「嫌い」という感情もあります。生きるということは、不可思議なものでも、神秘的なものでもありません。尊いものだ、生きることには大事な目的があるのだ、というのは単なる人間の主観的な感情にすぎないのです。生きるということは、「嫌い」を避けて「好き」を追うことです。とても単純な構成なのです。しかし、人は生きることを過剰評価するので、わからなくなっているだけです。
ブッダが、生きることは苦である、空しいものである、執着するに値しないものだと説かれても、人には、全く理解できない難しい話のように聞こえるのです。それは、自分の頭の中で「生」を過剰評価する感情的な妄想が錯綜しているからです。客観的にものごとを観る余裕がないからです。
「生きる」ことは、「嫌い」を避けて「好き」を追うという、あまりにも単純な機能なのです。従って、「好き」という感情について詳しく分析して、理解する必要があります。それによって、生きる苦しみを乗り越える方法を発見できるのです。今月は「好き」(piya)の、性欲(rati)という側面を考えてみましょう。
俗世間では、性欲 rati はとても自然的な本能として、正当化している感情なのです。しかし性欲が社会に与えているトラブルは、想像を絶するものです。精神病の大半は、歪んだ性欲が生んだものです。社会で起こる犯罪の、大半の原因は性欲なのです。幼児虐待、誘拐、殺人、放火などが、毎日のように起こります。性欲のせいで、非難されて政治の世界から閉め出される政治家もいますし、会社を倒産させる人々もいます。家庭を崩壊に追い込む人々の数は膨大です。諜報活動にも性欲が大事な役割を果たしています。治療不可能のHIV感染は、世界的な問題となっています。貧しい国々の子供たちに売春を強いるので、子供たちが人権どころか、生きる権利まで奪われているのは、性欲のせいなのです。
人間社会にいくら不幸を与えても、俗世間は性欲を正当化する。性欲は、自然な本能だと思う。必要不可欠なものだと思う。しかし、この考えは単なる主観的な感情であり、客観的な事実ではありません。「子孫を残す」ということに人間も他の生命も必死なのです。それは客観的な事実です。しかし、子孫を作ることでその生命が得るものは、何かあるのでしょうか?
食欲も欲ですが、それは満たせないと命を失います。ですから、必然的に満たさなくてはならない欲なのです。しかし、性欲を満たせないからといって、命を落とすことは決してあり得ないのです。それなのに、なぜ性欲は断言的に正当化しているのでしょうか。それは性欲が、生命の追う様々な「好き」の中で、かなり強烈なものだからです。ですから皆、性欲が満たされることを期待するのです。「子孫を残す」というのも、実は表向きの言い訳に過ぎません。人間の間では、結婚にも異性との関係にも興味はないが、子供を欲しがる人もいます。その人々は子孫を残したいという気持ちではなく、子育てが「好き」で、それを喜びたいのです。現代社会では子供を作ることを完全に否定して、性欲だけ満たして生きていきたいと思う人々の数が多いのです。性欲は決して生きることに欠かせない本能ではありません。音楽を聴く、贅沢をするなどのように、もう一つの強烈な欲なのです。
性欲を満たすことで命が延びるというよりは、縮みます。体力・精神力・財力を大量に費やすことになります。人は、性行為から得る快楽に強烈に執着します。猛烈に依存するのです。ですから、その快楽を得るために費やすエネルギーの量は全然気にしないのです。日常生活の中で様々な問題が起こるとき、楽しみや充実感を得られないとき、人はその苦しみのはけ口として性的快楽に依存することもあります。そのような人々は、愛することこそが人生の楽しみだ、神様が与えてくれたお恵みだと思うのです。愛する家族がいるからこそ日常の苦しみを乗り越えることができるのだと言うのです。
その上性欲は必ず独占欲を生み出す。独占欲はあらゆる問題、苦しみを引き起こします。性欲の対象を独占するためには、かなり苦労しなくてはならないのです。なにかと闘う羽目になる。闘うことによって、負けることも損害を受けることも味わわなくてはならないのです。独占欲というものは、制御しておかないと大変危険です。そのために、結婚と家族という文化が現れたのです。結婚、家族制度は、国によって宗教によって変わります。社会で「不倫は良くない」と言うのは、道徳を説いているのではありません。不倫は独占欲にチャレンジを仕掛けるからです。仏教も、「不倫は良くない」と言いますが、でもこれは道徳なのです。ブッダは、性欲は割に合わないほど不幸を招くもので、心の成長を妨げるもの、人を苦しみに徹底的に依存させるものであると説くのです。ですから、個人は自分の幸福を目指して心の成長を目指し、様々なトラブルや苦難を避けるために、不倫をやめるのです。自分の快楽のために他人の命を弄ぶことは人権侵害であって、慈しみの正反対だと理解し不倫を止めるのです。ですから、仏教で不倫は良くないと言っているのは、道徳なのです。人の独占欲を正当化するためではないのです。
インドのVajji国の 都Visālā にブッダが訪れたときの話です。
そのとき祭がありまして、Vajji国の王子たちは、正装して祭に参加するために出掛けました。弟子達と一緒に托鉢に出られたブッダが、盛装した王子たちを見て弟子達に告げました。「比丘たちよ、三十三天 Tāvatimsa の神々を見たことがない者は、この若者の王子たちを見なさい。似ているのです。」かなり明るく、威厳ある、麗しいグループだったと思います。祭に出掛ける途中で、美しい舞姫も一人連れてきました。彼女は王子たちを適当に楽しませていましたが、この若者たちは彼女を自分の方へのみ引き寄せるために気取って工夫しました。男たちの競争は、やがて喧嘩になってしまいました。負けず嫌いの王子たちの喧嘩は、生半可なものではありません。皆大けがをして、血を流すことになって、祭場から担架で運ばれました。神々のように祭に出掛けたのに、地獄から逃げ出すような感じで祭場を後にすることになったのです。
性欲は頭を狂わすもので、死ぬまで人を闘いに追い込むものであると、釈尊が弟子達に教えたのです。性欲に依存しない人が、常に安穏の心で平和でいられるのだと説かれたのです。
仏教用語で、「好き」を示すkāma という言葉があります。性欲に対しても使用しますが、一般的な欲に対しても使う単語です。俗世間で見られる正常な欲を表すとき、rati よりは kāma を用います。
舎衛城 Sāvatthi にある裕福な家庭に、女性に触れたこともない若者がいました。インドのSāgala という国にお気に入りの女性がいて、結婚を決めたのです。この若者が希望で胸をいっぱいにして、彼女を待っていました。家を出たことがなかったこの娘さんに、長旅の苦しみは耐え難いものでした。そして途中で亡くなったのです。愛する人と一緒に楽しい家庭を築こうと思っていた若者にとって、嫁が家に入る前に亡くなったことは、耐えられないショックでした。彼は寝込んでしまいました。立ち直らせることは誰にもできませんでした。
釈尊がその家を訪ねました。「あの元気な若者はどこですか」と、お尋ねになりました。両親は息子が立ち直れないほど精神的に落ち込んでいることを報告しました。釈尊がその若者を呼んで、事情を聞きました。自分の今の惨めな姿、味わっている苦しみをよく理解しなさい。あの元気も明るさも若さも、どこへ行ったのかと観察しなさい。君を一日にして地獄の苦しみに陥れたのは、誰でもなく君の心にあった欲だよ、と諭されました。美人と一緒になって、家族を築こうと思ったあなたの欲が、あなたを不幸にしたのですと。この若者は、未だに女性に触れたことがないにも関わらず、心に欲の気持ちが現れただけで人生が逆転して不幸のどん底に陥ったことを理解して、欲は依存するに値するものではないと理解し、預流果の悟りを得たのです。
王子たちのエピソードでは、釈尊が使った単語は rati です。その場合は、単なる性欲なのです。その場限りの遊びではないかと思って人は性欲に溺れますが、性欲は快楽だけ与えて万事消え去るわけではありません。必ず割に合わない不幸を招くのです。一回だけの遊びでも、政治の座から降ろされたり、HIVに感染したり、会社をクビになったり、家庭が崩壊したり、高額の慰謝料を払ったりするはめになるのです。生きること自体、戦場にいるような厳しいことであるにもかかわらず、人は簡単にさらに危険な性的快楽に依存して、楽しみを味わいたくなるのです。しかし、性欲も麻薬中毒と同じく、「一時的な快楽」と「最大の苦しみ」というセットになっているのです。
性欲に対して、釈尊が肉片という例えを使います。一羽の
二つ目のエピソードに出る若者は、動物的な性欲ではなく、楽しい家庭を築くことを夢見たのです。性欲だけではなく、子供を育てること、一緒に商売すること、家を守ることなど、いっぱい楽しみを期待していたでしょう。一つも罪にならない、悪にならない正常な欲(kāma)なのです。しかし、それさえも彼に大変な精神的な苦しみを与えてしまいました。家庭を築く楽しみが、自分の人生の楽しみだと思ったのです。まだ経験してもいないのに、その楽しみに希望的に依存してしまったのです。楽しい家庭を築くことができても、親しい人の死などを経験しなくてはならない。子供が病気になったり、事故に遭ったり、誰かに殺されたり、誘拐されたりする恐れもある。家に強盗が入って、財産を持って行かれることもある。欲に依存するとこのような恐怖感、不安感から決して逃げることはできません。
このように、様々な形の「好き」があります。「好き」という感情が現れたら、それに頼る、依存することは必ず起こる。依存した時点で自分の自由を失う。その「好き」になった対象に束縛される。自分の期待通りに、希望通りに生きることはできなくなる。「好き」になった人や物のために、人生を調整することになる。気付くこともなく、「好き」に依存すると、自分が他人の奴隷になって生きているのです。
今回のポイント
- 食欲は満たせないと危険だが、性欲は満たさなくてもよい。
- 一歩間違えば、性欲は多大な損害、多大な苦しみ、犯罪などを引き起こす。
- 人は、子孫を残すために性行為をしているのではない。
- 欲は正常な範囲であっても、トラブルを起こす。
経典の言葉
- Ratiyā jāyatī soko, Ratiyā jāyatī bhayaṃ;
Ratiyā vippamuttassa, Natthi soko kuto bhayaṃ. - 慾楽より 愁い生じ 慾楽より 惧れ生ず
慾楽を 離れし時 何の愁いぞ 何の惧れぞ - Kāmato jāyatī soko, Kāmato jāyatī bhayaṃ;
Kāmato vippamuttassa, Natthi soko kuto bhayaṃ. - 愛慾より 愁い生じ 愛慾より 惧れ生ず
愛慾を 離れし時 何の愁いぞ 何の惧れぞ - 訳:江原通子
- (Dhammapada 214,215)