No.124(2005年6月)
他人に好かれる道
人の目を気にする人は、嫌われる Real leader discerns one's own self.
人の様々な「好き」について語ってきましたが、今月は他人が自分を好きになるということについて、考えてみましょう。他人に好かれることは、決して悪いことではありません。タレントさんみたいに、たくさんの人々に「追っかけ」をされると、とんだ迷惑ですが、タレントさんたちは、その人気のお陰で生計を立てていることも事実です。
自分に対して他人が良い評価をしていることは、自分がそれなりに社会に認められる生き方をしている証拠です。他人の協力なしには、この世で生きていられません。一般的に考えられている幸せというものも、突き詰めていくと、良い人間関係であるという答えになります。家族がいて楽しい、子供がとても可愛い、仕事が楽しい、良い仲間がいっぱいいるのだという場合、それは人間関係という幸福なのです。人間関係が上手くいっていると、幸せを感じるのです。仕事が上手くいくことも、商売繁盛できることも、家庭円満も、学業成就も、健全な人間関係の上に成り立つのです。ですから、一般的に考える幸福の概念は、健全な人間関係であると言っても過言ではありません。これも言い換えれば、「他人に好かれる」ということなのです。
ですから他人に好かれるかどうかは、大事に考えなくてはいけないのです。しかし、他人のことばかり考えて、他人の気持ちが常に気になって、他人にどう思われているのかと常に注意して生きることは、決して楽ではありません。ストレスが溜まる生き方なのです。また、良かれと思ってやったことが外れる可能性があります。時々というより、ほとんどの場合は、他人が何を考えているのか、実際は何を期待しているのか、さっぱり理解できないのです。他人に好かれるのは良いことですが、このような状態では、「他人に好かれる道」は期待外れが多くて、かなり険しい道ではないかと思われるのです。
他人のことばかりを気にして生きることは、正しい道ではありません。釈尊は、決して外れることのない他人に好かれる道を説かれたのです。その道を理解して実行すれば、人生は成功すると思います。
まず言えることは、他人の気持ちを考えることは止めることです。自分の気持ちさえも何なのかと自覚がない我々に、他人の気持ちなんかは理解できるはずもないのです。そして、そういう意味では他人も自分と同じです。自分たちの気持ちはどうなのかという、自覚はないのです。「私は私自身の気持ちさえわかっていない。あなたは、あなた自身の気持ちもわかっていない。それでも私は、あなたの気持ちを理解しようとする」ということは、ありえない、成り立たない話です。生まれつき目が見えない二人が、美しい色彩について語り合っているようなものです。上手くいくはずがないのです。世間ではスローガンの如く、「他人の気持ちを理解して行動する」という言葉がよく聞こえて来ます。みな、それに乗せられて他人の気持ちを理解する努力もします。ところが、それはもともとあり得ない話なのですから、失敗するに決まっている。
何十年も夫婦生活をしていながら、相手の気持ちを理解できなくて、または相手を誤解してしまって、やがては離婚ということになるのです。手塩にかけて育てる子供たちの考え方や気持ちを、やがて解らなくなって、親子関係が断絶してしまうケースもあります。幼なじみでも、やがて喧嘩別れをする。人間関係が破綻するということは、この世で当たり前に起きることです。しかし、皆めげずに相手を理解しようと挑戦する。それで、見事にあてが外れる。結果として、多大なストレスが溜まる、精神的に落ち込む、生きることは苦しくなる。従って、この道は正しくないのです。
合理的に具体的にものごとを説明する仏陀は、まずは自分を理解しなさいと説かれるのです。自分を正しく、ありのままに理解している人なら、敢えて努力しなくても、楽々と他人を理解出来るのです。それは外れることは、決してありません。ですから、「他人に好かれる」ためには、自分自身を理解することから始めなくてはならないのです。それは自己観察なのです。自己観察を脇において、良い人間になろう、皆に好かれる人間になろう、他人に認められる人間になろうと、あれこれ努力しても、大変苦しくなるのです。結局は上手くいかないのです。自己観察だけしておけば、自然に皆に好かれる人間になるのです。他人に認められる人間になるのです。
しかし残念ながら、自己観察など誰もやりたがらないのです。そして、それが何故かということも、理解されていないと思います。では、その理由を説明しましょう。口に出しては言わないが、我々は、自分が完璧な人間だと思っているのです。自分が常に正しいと思っているのです。間違いを犯したとき、失敗したときでさえも、他人の批判を嫌がり、非難を怖れる理由は、それなのです。自分が完璧でないことは当然だと思っているならば、他人が自分を批判するとき、とても楽しくなるはずです。しかし、批判されて良かったと思う人間はいませんね。
そこで、ある人が自己観察を実践しようとする。その人は何を発見するのでしょうか? 他人に好かれる長所なんかは、何一つも見つからないのです。我が儘、優柔不断、傲慢、怒り、憎しみ、嫉妬、怠けなどは、いくらでも見えてきますが、自慢できる良いところは、なかなか見あたらないのです。自分は完璧だ、正しいのだと勘違いしていた人にとっては、耐えられないほどのショックでしょう。好かれたいと思っていたが、嫌われる短所のアラカルトを発見するのです。
それでどうなるかというと、その人は開き直って自己観察を止めるのです。元の幻覚思考に戻るのです。他人に嫌われる、嫌悪される性格のままで生きることになるのです。しかし、勇気のある人は素直に自己観察を続けるのです。短所のアラカルトだから、傲慢も、見栄を張ることも出てこなくなるのです。それだけでも、もう他人には好かれますよ。勇気を持って、素直に自己観察を続ければ、確実に期待通りに良い結果になるのです。
それには、秘密があります。心は、自分が本来完全無欠だ、完全無垢だと、とてつもない誤解に苛まれています。それで自己観察をし始めると、本当の自分が見えて来る。そうなると、二通りの結果になるのです。根性の無い人は、自己観察を止める。勇気のある人は、自己観察を続ける。勇気のある素直な人々の心は、それでも完全無欠・完全無垢に対する期待を諦めない。本格的に完全無欠・完全無垢にならなくては恥だという気持ちになるのです。自己観察で発見するあらゆる短所をなくそう、無効にしようという気持ちになるのです。ですから、短所を発見することで、ダメージは受けざるをえません。それでも、めげずに繰り返し、より鮮明に短所を観察すると、跡形もなく消えるのです。完璧だと、とてつもない誤解に陥っていた心は、正真正銘の完璧になってしまうのです。これが自己観察の秘密です。
「人間は不完全だ」という話を、よく誰でも口にするものです。人間なら誰でも、間違いを犯すEvery man has his faults.《だれにも欠点はあるもの》「無くて七癖」「叩けば埃が出る」という諺があります。To err is human, to forgive divine.(Alexander Pope)《過つは人の性、許すは神の心》という諺さえあります。しかし、不完全でしょうがないではないか、人を批判したり差別したりしてはいけないのではないかというぐらいの教訓で終わるのです。より善い人間になりなさい、完全性を目指しなさいという上昇志向はないのです。仏陀の場合は、「生命は不完全だからこそ、完全性を目指す」というような諺になるだろうと思います。仏教が語る解脱は、その境地なのです。心にある「私は完璧だ」という、とんでもない錯覚を正して、正真正銘の完璧な心を持つ人間を育てるのです。
自己観察を始めた人が、間もないうちに他人に好かれる人間に変わっていくのです。徐々に自分の気持ちが分かってくるので、他人の気持ちも理解できるようになるのです。「この人には好かれたい。この人には好かれなくても結構」だと理解できる。「この人に賛成した方が良い。この人に反対したほうが良い」と理解できるのです。正しい好かれ方は、自分の方から相手を追いかけて、機嫌を取って、自分の方を向いてもらって、束縛することではないのです。他人を追っていくと、他人は逃げてしまうに決まっているのです。正しい好かれ方は、自分の心の力に皆引かれて、寄ってくることです。自然に他人が引かれてくるところに、「なんとかして好かれなくては…」という無理はないのです。
自己観察する人の心の成長の流れを考えてみましょう。まず、欲、怒り、無知、嫉妬、傲慢、我が儘、などの感情の荒波に流されて、自分がロボットのような生き方をしていることを発見する。自分のためだと思って行う行為は、自分の不幸につながる。他人のためだと思って行う行為も、結局は他人を不幸にする。感情に流されて、ロボット化された生き方は善くないと理解する。悪い感情を治めるような行動をしようとする。その行為は見事に自分のためにも、他人のためにもなってしまう。この状態は仏教で言う、道徳的な生き方なのです。パーリ語で、sīladassana sampanna 理解に基づいた戒律といいます。無理なく、道徳を守る人間になるのです。
さらに観察を続けると、心の働きが見えてくるのです。心が苦しみを作ることも、その原因も見えてくるのです。自分だけではなく、すべての生命の心も、同じ法則であることも発見するのです。「私がいる」という錯覚に基づいて、皆ものごとを考えていることを発見する。人は何を考えても、何を推測しても、元は錯覚なので、正しい理解が起こり得ないと、発見する。永遠不滅の、一定した、全く変わらない自我・自分がいるのではなく、その瞬間その瞬間の因縁によって、一時的にのみ、自分という自覚が起こるものだと発見する。何ものも執着するに値しない、一時的な、瞬間的な現象であると発見することで、心は解脱を経験するのです。これが、心の完全無欠・完全無垢な状態なのです。
したがって、自己観察する人は仏陀によって説かれた真理を、自分自身で発見するのです。真理を知った人になるのです。心は太陽の如く輝くのです。太陽は、地球上の生命に好かれようと何の努力もしない。しかし、地球上のすべての生命は、太陽のお陰で、太陽の力で、太陽に支えられて生きているのです。いわば、太陽は皆に好かれているのです。太陽自身が全く無関心なのにです。自己観察する人の心も、このようなものです。自分には、他人に好かれても好かれなくても、何の関係もない自由自在な心があるのです。しかし完全無欠の心を持っている自分が、すべての生命に自然に好かれるのです。
他人に好かれる正しい方法というのは、他人の気持ちを気にしながら、人の目を気にしながら生きることではありません。自分自身の心を観察することなのです。(attano kamma kubbānam taṃ jano kurute piyaṃ 自分のなすべきことをなす人は 人々に好かれる)他人に好かれることは、自分の人格が善であるか、悪であるかが分かるバロメーターなのです。しかし、他人の目を気にするという間違った生き方は、止めなければいけないのです。
今回のポイント
- 他人に好かれる性格は必要です。
- 人の目を気にする生き方は、正しくない。
- 自分の気持ちもわからない人に、他人の気持ちがわかるはずがない。
- 自己観察することが、他人に好かれる、人格を完成する唯一の道なのです。
経典の言葉
- Sīla dassana sampannaṃ, Dhammatthaṃ sacca vedinaṃ;
Attano kamma kubbānaṃ, Taṃ jano kurute piyaṃ. - 戒行・見識まどらかに 法に立脚 実語説き
自らなすべきことをなす かかる人をば世は愛す - 訳:江原通子
- (Dhammapada 217)