パティパダー巻頭法話

No.140(2006年10月)

無明は最大の錆

こころ次第で何にでもなる Ignorance is the greatest evil.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月も錆の話を続けます。「人生の錆び」は色々あるから覚えておけば役に立つのです。錆びない輝かしい生き方が出来るようになるのです。我々は身体(肉体)のことならよく気になります。少々体重が増えただけで、調子が悪かっただけで心配する。瞑想修行している時でさえも、少々身体が暑く感じたら、寒気を感じたら、心臓の鼓動を感じたら心配してしまって、恐怖感に陥る。それでは、何もできなくなります。肉体のことは全然心配することはないと思いますが、だれも聞いてくれません。人は肉体のために、肉体に支配されて奴隷のように、肉体至上主義で生きているのですが、それを認めたくはありません。

こころがなければ、肉体は単なる物質だと、先月号に書きました。支配者はこころです。肉体はこころの道具に過ぎないのです。ですから、こころに錆が入ったらそれは身体にも現れるのです。こころに怠けの錆が入ったら、体重が増える。こころが怒り、憎しみに支配されると身体も見る見るうちに壊れてゆく。怒りは破壊するエネルギーですから肉体の壊れるスピードが速くなる。穏やかな、明るいこころでいる人の肉体は老けるスピードは遅い。肉体のことだけ心配して、肉体の面倒だけ見て生きると、堅い肉体にはなるが、弱くなっているこころは先に衰える。こころに身体を支えることができなくなるので寝たきりになる。知識が先に死ぬから自分の名前さえも最後に忘れてしまう。しかし、強い肉体をもっているのでこころにその肉体を捨てることもできなくなる。本人は長い時間植物のように生きて、苦しんで死を迎えることになる。逆に強い精神を持って生きている場合は生きている間は肉体も元気です。こころが弱くなった時点で苦しまず死を迎える。だれでも、痴呆にならないで、寝たきりにならないで、死ぬときはぽっくり死にたいと思っているでしょうと思います。肉体のことより、こころのことを心配する人にはその願いが叶えられます。こころの整理整頓ができれば、肉体も自動的に整理整頓になるのです。健康で長生きすることができるのです。ですから、こころの錆について学んで、気をつけた方が必ず役にたつと思います。

どんな問題でも、見る角度によって変わった答えが出てくるのです。ですから、お釈迦さまもひとつの問題を説明すると、様々な角度で説法なさるのです。今月は錆の問題を別な角度で考えてみます。女性にとって、錆とは何でしょうか。お化粧しないことでも、太っていることでも、歳をとっていることでもありません。女性にとっての錆は、淫らな行為です。男性なら構わないという意味ではありません。淫らな行為をすると、男性よりも女性が不幸になるのです。苦労するのです。男女平等だといくら謳っても、性別まで平等になるわけではありません。女性は、新しい命を世に生み出す生命です。女性は、子供を産んでは捨てるということもできません。赤ちゃんを育てなくてはならないのです。世の中の人類が、平和的になるか、しっかり頑張るか、怠け者になるか、道徳的になるか、犯罪を犯すかは、基本的に産んで育てた女性によって左右されるのです。社会から良いものも悪いものも学ぶが、その情報を受け入れる器の形は母親の躾によるものです。女性についてくる義務は、あまりにも大きいのです。たとえ女性といっても、一人の人間です。無知なところも、弱いところも、力のないところも、皆同じです。しかし、女性に産まれたからには、人間を産んで育てて社会に送り出すという、乗り越えがたい・上手く果たせない義務から逃げられないのです。

でも、世の中の女性は、見事に頑張ってきたのです。悩み苦しみ、不公平に耐えてきたのです。男性社会が女性を自分の位置から落とそうと必死ですが、決して女性の指導権はこの世の中からは消えません。しかし女性が女性らしくなくなって、男性よりもみじめになって社会から追い出されることになったら、それはその女性のこころが錆びたからなのです。それで女性の錆は「淫らな行為」なのです。子供と家族の幸福のために、献身的に見返りもなく貢献している女性は、自然に自分自身を制御しているのです。自分の気持ちを管理しているのです。もし女性が羽根を伸ばすと決めたら、どこまででもできるのです。淫らな行為は、男性は自分の特権だと思って犯してはいるが、それほどできないのです。早くもくたびれて、病弱になるのです。何人でも子供を産んで育てる体力のある女性は、そう簡単にはくたびれません。ですから、羽根を伸ばした女性は、悪行為のリミットを知らないのです。女性と遊ぶ男性も、相手を一人の女性として、一人の人間として見ないのです。遊ぶ道具だと思うのです。ですから、羽根を伸ばす女性は損するばかりです。子育ての苦しみは、最後にでも充実感、幸福感を与えてくれる。自分の人生は無駄ではなかったと感じさせる。しかし、淫らな行為という地雷を踏んだら、何の幸福もなくなるのです。お釈迦さまが、淫らな行為をする女性を川、道路、酒場、宿、水飲み場に喩えているのです。皆このようなところで、自分の用事だけ済んだら何の感謝もなく出ていくのです。道路を使う我々は、混んでいたら文句を言う。工事中なら文句を言う。事故で交通整理されると文句を言う。しかし、道路はきちんと整理されてあって気持ちよく走ることが出来ても、ちっとも感謝の念はないのです。淫らな行為に陥る女性は、自分の大事な人生をこのようなものにするのです。子供を産むこと、育てること、家族を守ることは大変苦しい作業ですが、幸福感、充実感もあるのです。自分の存在価値を感じさせるのです。大人になった子供は老後面倒を見てくれるから、上手くいけば死ぬまで困ることはないのです。というわけで、淫らな行為は女性の錆なのです。

言っておきますが、仏陀が女性たちに従順でいるべきと言っているのは、世の中の人間の考え方に賛成しているからではありません。女性を支配して家に閉じ込めようとしている、男尊主義を認めているわけではありません。女性が不幸になることを心配しているからです。女性に対しても平等に憐れみを抱いているからです。

では、次の錆を説明します。布施をすることで、困っている人に、社会に、何かを貢献することで、人は幸福になるのです。布施をしたことがない人は、財産に恵まれないのです。過去世でも布施したことがない人は、この世で努力しても人間として充分な収入は得られないのです。ものを与える人のこころに、善業というエネルギーが溜まるのです。そのエネルギーが外の財産を自分の方へ引き寄せてくれるのです。日本のお金持ちの方々が、口癖で言う言葉があります。「金は自分の方からやってくる」。確かに、その方々は過去世で布施をしたのです。ですから、僅かな努力で大金が入ってくるのです。本人はそこまで儲かるのかと期待もしていないのです。財産に困ることなく楽しく生きられることは、人の素直な気持ちです。汚れた気持ちではないのです。しかし、そのような目的に達する人々は少ないのです。布施をする、奉仕をする、貢献する、ボランティアをする、などの行為で、業のエネルギーを溜めてもらわなくてはならないのです。しかし、布施をする気持ちになる人間はあまりにも少ないのです。布施をして幸福を勝ち取ることができないのも、錆がこころにあるからです。それは、物惜しみということです。「私のものは私のもの。誰にもあげたくはない。誰にも使わせたくはない」という気持ちです。確かに、自分のものは自分のものですが、その気持ちでいると、性格はとても暗くなる。友達はいなくなる。家族に、子供にさえも見放される。誰も助けてくれなくなる。自分の財産もみるみるうちに消えていく。買った品物でも、早く壊れる。自分の持っているものも、自分から逃げていく。「私のものは皆のお陰だ」と正しく思わなくてはならないのです。従って、布施をして明るい人生を築くことに邪魔をする錆は、物惜しみであると理解しておきましょう。

では、次の錆を説明します。人は、この世で幸福に生きていきたいと思う。幸福に生きるべきなのです。決して人は不幸になってはならないのです。この世だけではありません。死後もあの世で幸福にならなくてはならないのです。生命は誰でも幸福でありますように、という念を抱いて生きることは、仏教徒の基本的な生き方でもあるのです。ですから、この世でも最高に幸福で死後も最高な幸福になりたいと期待することは、「欲深い」ということではありません。当然な希望なのです。

では、人々は皆幸福に生きているのでしょうか。そうではありません。幸福になりたいのに、なぜなれないのでしょうか。この問題に一般人は、景気が悪いから、親の育て方が悪かったから、大国に搾取されているから、共産主義社会に生きているから、競争のある資本主義社会に生きているから、などなど言うでしょう。全部まとめてみると、「私の不幸はあなたのせいだ」ということです。しかし、仏教の立場は違います。「あなたの不幸はあなたのせいだ。私の不幸は私のせいだ」ということなのです。

幸福になれないのは、こころが錆びているからです。錆びているこころで生きていると、死後もさらに不幸になるのです。この世とあの世の幸福を破壊する錆とは、何ですか。悪行為です。悪事です。「一切の不善行為をしてはならない(sabba pāpassa akaranaṃ)」は、諸仏の教えです。小さな悪行為でも我々の幸福にダメージを与えると覚えておきましょう。

では最後に、最大の最悪の錆について説明しましょう。まず質問です。最大の苦しみとは何でしょうか? 
四聖諦の話を学んでいるから、答えをご存知だと思います。
第一に生老病死です。この四苦から誰も逃げられません。自由になれません。嫌なものに出会ったり、嫌なことをしたり、生活しなくてはいけないのです。例えば、勉強したくないがしなくてはならない。朝早起きしたくないが、早起きしなくてはならない。仕事はやりづらいが、しなくてはならない。仕事上、性格の悪い人と一緒にいたくはないが、それはどうにもならない。病気になりたくないが、その希望はかなわない。老いたくはないが、叶う筈もない。次に、好きなものからはなれなくてはいけないという苦もあります。人生というのは、結局は好きなもの、好きな人、好きなことから離れていく道なのです。子供のころから死ぬまで、我々は絶えずこの経験をしているのです。「略して言えば、五取蘊は苦です。」五蘊というのは、身体とこころのことです。肉体は色蘊で、感覚・概念・衝動・認識という四蘊はこころです。結局は身体とこころの両方は、苦ということになるのです。否、身体とこころは苦ではなく、身体とこころにべったりと執着していることで、結果は苦になるのです。だから、五蘊といわず五取蘊(pañcūpādāna kkhandhā)と説かれているのです。生きているということは、感じるということです。感じるものは全て苦に属すると説かれているので、わかりやすくいえば、「生きることが苦」なのです。

金を儲けたり、家族を養ったり、旅に出たり、その他の楽しいことを探したりして、私たちは生きている。「楽しかった。楽しいこともあるのだ。」という感想で生きている。しかし、それら全てが生きていることなのです。苦しいことに、不幸なことに比較して、楽しいこともあると対称的に思っているだけで、全ての感覚は生きるということに属しているのです。ですから、私たちが嫌がる苦しみだけではなく、喜んで執着する楽しみも、苦なのです。生きることは苦です。これは、聖なる真理です。物事は因縁によって生まれては消える。因は果になる。その果はまた因になって別な果を出す。これで絶えず生滅の回転が起こるのです。ということは、死で生きることは終わるのではないかとほっとすることはできないのです。生きる苦しみは、限りなく続く。死ぬときも不満で死ぬから、また生を期待するのです。したがって結論として言えるのは、「輪廻転生は最大の苦である」(Satto samsāramāpādi _ dukkhamassa mahabbhayaṃ 輪廻をする生命にとっては苦は最大の脅威です。S.I,37 )という仏陀の言葉です。生きることは、いくら苦しくても生命は生きることに執着する。地獄に落ちた生命でさえも、死にたくはないと、その生に執着するのだと言われているのです。そうでなければ、地獄に落ちたら生きることが嫌で無執着の気持ちになって、解脱してしまうでしょう。それはあり得ないのです。

生命は、生きることが苦であると発見しないのです。全ての現象は無常で、実体はありません。執着に値しません。この事実を理解していないことが、無明というのです。輪廻転生して最大の苦しみを味わう生命の最大の錆は、無明です。

今回のポイント

  • 肉体のことは心配する必要はありません。
  • こころの錆は幸福を壊す。
  • 淫らな行為は女性の錆。
  • 物惜しみは布施の錆。
  • 罪はこの世とあの世の幸福を壊す錆。
  • 無明は、最大の錆。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XVIII MALA VAGGA
第18章 垢の章

  • Mal’ itthiyā duccaritaṃ, Maccheraṃ dadato malaṃ;
    Malā ve pāpakā dhammā, Asmim loke paramhi ca. (Dh.242)

    Tato malā malataraṃ, Avijjā paramaṃ malaṃ;
    Etaṃ malaṃ pahatvāna, Nimmalā hotha bhikkhavo. (Dh.243)

  • 不義は女人の垢にして 惜しみは布施ダーナの垢となる
    悪しき所行はこの世でも はた彼の世でも垢となる

    これらの垢の第一に 無明アビッジャーなる垢あれば
    專心これを拂い捨て 無垢の者たれ比丘たちよ

  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 242,243)