パティパダー巻頭法話

No.143(2007年1月)

祝福論

祝福は迷信ですか? Valid blessings and void blessings.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

互いに祝福や挨拶を交わす時期になりました。我々は習慣に則って新年の挨拶をします。でも、それに何か意味があるかどうかはそれほど気にしません。挨拶を交わしたところで互いに落ち着くのです。もし、何かの理由で新年の挨拶ができなかったら、自分が何か無礼なことをしてしまったような気がする。祝福されて、挨拶を受けて気持ちが悪くなるわけではありません。祝福することも挨拶をすることも同様で、気持ちが悪くなるわけではありません。ですから、人間の間では様々な形の祝福、挨拶が沢山あります。そして祝福・挨拶がありすぎて困ることもあります。挨拶を間違ったり、場に合わなかったり、上手くできなかったり、適切な挨拶を選ぶことで悩んだりもします。

そこまでは、皆様がわかっていることなので、別なポイントに集中したいのです。「挨拶・祝福」の言葉の意味は何ですか? 皆、真剣にその意味を考えて、理解して行っているのですか? ただ、マンネリで、習慣で行っているのではないですか? などです。要するに「祝福・挨拶の意味はいったい何なのか?」という疑問です。”Good morning”、「こんにちは」などの意味は何ですかと訊ねれば、何かの意味を教えてくれるかもしれません。しかし、私たちは本当にその意味を相手に理解しててもらって、喜んでもらうという気持ち、狙いはないのではないかと思います。

人間は自分という殻のなかで生活しています。殻の中にいると、相手の人間が、「他人」になってしまいます。他人が、アクセスできないか、敵かどちらかです。そこで、good morningという言葉で互いに賛成できる、共通する、共感できる意見を交わすことで、互いの殻から出てコミュニケーションできるようになります。このポイントが勉強になると思います。生命は自分の殻に閉じ込まれている存在です。他人との関係が苦痛です。他人の事が気に入ってもそう簡単には付き合えない。殻が邪魔になる。また、相手が殻に隠れているから敵か味方か、何者かよくわからない。共感できる挨拶で「自我」がなくなるわけではなく、生きる上で欠かせない人間関係がなんとなく成り立つのです。ここまでの話を纏めると、自我があるから挨拶は成り立つということでしょう。我々はエゴイストであって、そのエゴイズムのトラブルを軽減してくれるものが挨拶ですね。

次、「おめでとうございます」、”congratulations”などの祝福文はどのようなものでしょうか。当然、相手に対してなにか良いことがあって、こちらもそれを喜んでいる、賛成している、認めているという意味だと私は思います。では、なぜ自分が相手の幸福を認めなくてはならないでしょうか? 家族のような親しい間なら、皆喜ぶのは当たり前で、特にそれを形式的な言葉にする必要はありません。あまり関係のない人の幸福であるならば「大きなお世話」になる可能性もあります。しかし、何か良いことが起こるとき、関係のない人でも祝福すると悪い気にはならないことは確かです。ライバルに、敵に言われると機嫌が悪くなる、ということもないのです。ライバルを超えた気分になるのです。やはり、祝福も人間関係では必要不可欠な習慣です。

また、エゴの問題です。人は自分の殻に閉じ込められて生きているのです。エゴイストです。自分の殻の中にいると他人は関係のない人か、敵、ライバルなどのどちらかになるのです。数は少ないが他人の中で味方もいる。自分の殻の中に閉じ込められている時、関心事の第一は自分の幸福なのです。他人の幸福、成功などを見られると、自分の不幸に対して怒りが生じる。落ち込むことも怒りです。また、相手の事を嫉妬してしまうのです。嫉妬も本来は怒りの変形です。この世では、皆敵同士で、ライバル同士で、互いに嫉妬しては生きていられないのです。自分が苦しみを感じるのです。嫉妬、怒りをほおっておくと我々は互いに迷惑ばかりを掛ける人間になる。他人と競争すること、戦うことが優先になる。このような生き方で人生が上手く運べるわけではありません。相手の成功、幸福などを祝福の言葉で認めてあげると、自分のこころが楽になるのです。嫉妬、怒り、悔しい気持ちがあったとしても、それはなくなるのです。敵意、ライバル意識があったとしても、それもなくなるか、柔らぐのです。

要するに、エゴイストたちである我々は、相手を祝福することで平和な、生きやすい社会を築くことになるのです。自分一人で、怒りで、嫉妬で、落ち込みで、悩むことがそれなりになくなるのです。

話を纏めてみましょう。挨拶も、祝福も人の性格に関わるものです。自我中心的な生き方をいくらか戒めます。挨拶が上手な人は信頼できる人だと言えるところかもしれません。しかし、お釈迦様はこのような言葉を語ったことがないから、普遍的な真理ではなく、そこそこ合っている言葉にした方がよいでしょう。挨拶はあまりも形式化しています。その場で、その場で使用する文を覚えておけばセーフということもありますから、気持ちが備わなくても挨拶ぐらいはできます。エゴ、自我、嫉妬、怒り、落ち込み、恨みなどを一時的にでも戒めるから、佛教の立場からみると挨拶することは、祝福することは明らかに善行為になるのです。善行為をしたならば、善果を得るのです。

次に、「成功を祈る」、”wish you good luck”のような言葉について考えてみましょう。お祈りされる側が今おかれている状態より良い状態になることを、祈る側が期待する、望むと言う意味になるのです。ということは、相手の今の状況はあまり良くないようですね。「更に、成功を祈る、もっと幸福を祈る」と言葉を換えても意味は同じです。相手の幸福を祈る場合は、どちかというと、自分が幸福だということになるのです。または、その特定の幸福は自分に関係がないのです。世界選手権に参加する日本代表の選手たちの成功を祈る時は、その選手の勝利は我々に関係がないのです。自分がかつて、世界のタイトルを取ったこともないのです。お祈りをする自分にタイトルがないことは不幸ではありません。ですから、自分が大丈夫です。自分が大丈夫だと思えないなら、相手の成功を祈るなどのお祈りは難しいということを述べたいのです。

貧困で悩んでいる人には相手の商売繁盛を祈願することは少々無理です。末期状態の人に相手の健康を祈ることも難しい。できないわけではありません。父親には、「私は勉強をできなかったけど、君の合格を祈る」ということはできます。自分がまずい状態にいるにも関わらず相手に祝福ができるようになるには、親に等しい慈しみがなければならないのです。我々は他人に対して慈しみがあるかもしれませんが、我が子のように皆のことを想うと言えるのに無理があります。ですから、「自分は大丈夫だ」という立場でいなければ、相手に対して「合格を祈る、幸福を祈る、成功を祈る」などは難しいです。言葉だけを言っても本気ではないと思います。それは、人のことを嫉妬しているのではなく、自分の心境の問題です。

祝福することは宗教の特権になっています。ほとんどの人々は宗教のお世話になるという場合、それは、単純に祝福してもらっているという話です。「家の宗教はすばらしいです」と言う場合もその意味は信仰する宗教の御陰で物事は上手くいっているということになります。一神教では祝福儀礼は簡単に成り立ちます。偉大なる神様になんでもできるから、個人の祝福ぐらいは何ともないのです。人を祝福する様々な宗教がいます。彼らが普通の人より何かの力が持っていると思っているのです。それで、祝福が有効なものになるのです。それは、祝福する側が上の立場にいることと、祝福される側が何かに困っていて、手も足も出ない状態でいるという意味です。省略すると、祝福する側の立場は上で、される側の立場は下なのです。

ですから、子供を祝福することは親に、目の上の親戚にできます。先生にも生徒を祝福することができます。自分が尊敬している人から祝福を受けることもできます。祝福する側に対して、失礼な態度、無礼な態度を取ると祝福する側の気持ちが揺らぐので祝福にならない、効き目がないという法則も見えてきます。

祝福は宗教の特権なので、佛教も人をよく祝福します。人に祝福すること以外何もやらない佛教の組織もあります。しかし、それだけは、本来の佛教から脱線することになります。佛教は教える、指導する宗教です。ちなみに、祝福もしますが、本業ではありません。祝福の理論に基づいて言うと、佛教が人を祝福するときも佛教の方が断然上であることを忘れてはならないのです。

では、佛教の本業である「教える」立場から「祝福は効果的ですか?」という問題に入ります。成功、失敗、幸福、不幸、上手くいく、上手くいかないなどは全てこころの状態によるものです。支配者は神ではなくこころです。汚れたこころ、弱いこころ、混乱したこころ、エゴのこころはそれに適した好ましくない結果を出す。(こころがだめでも、人は良い結果を望むのです。法則は悪因悪果ですが、我々は善因善果と悪因善果を望む。)慈しみのこころはとても清らかで、強いこころです。ですから、親の、先生の祝福には百%ではないが、効き目がある。僧侶も本気で相手が幸せになって欲しいと思っているから、宗派に関係がなく効き目があるのです。

恐怖、不安、失敗、不幸の原因と言えば貪瞋癡です。悟ってない人のこころは貪瞋癡で支配されている。しかし、たまたま、場合によって不貪不瞋不癡になることもある。そのときの祝福に力があります。しかし、完全無欠ではない。子供は成功したら、自分も幸せだ、他人に自慢できるのだと思うからね。お布施頂くから祝福する僧侶のこころもその点で汚れるから、効き目が弱くなる。神は存在さえもしないから、神の祝福の効き目は祝福する人の心境に委ねられます。効き目を説明するエピソードが一つ、経典にあります。帝釈天が阿修羅たちと戦う羽目になって、Pajāpati, Varuna, Īsānaという将軍の神三人と戦闘に行く。帝釈天は陣営の神々をこう激励します。「君たちは諍いで恐怖感を感じたら自分(帝釈天)の旗を見なさい。できなければ、Pajāpatiか、Varunaか、 Īsānaの旗を見なさい。恐怖感が消えますよ。」そう言ったのですが、神々はたとえ旗を見ても怖くて怯えたのです。なぜでしょうかと釈尊が比丘たちに聞く。釈尊の答えは、帝釈天であろうとも皆、貪瞋癡があるから怯える、怖くなる。怯えている人に他人の怯えをなくすことはできません。しかし、比丘たちよ、あなた方に告げます。森の真ん中で、一人静かに修行するあなた方に、恐怖感、毛が立つ、鳥肌がたつことがあったら、たちまち仏陀を念じなさい。また、法を念じなさい。また、僧を念じなさい。確実に、恐怖感が消えます。なぜならば、仏陀が不貪不瞋不癡であって、怯えることはみじんもありません。(Sanyutta Nikāya, I,218) 神々の王様にも自分たちの間で恐怖感が起きたらそれを何とかすることはできませんね。(我々が神に祈っても、神々にはそんな力がないようと、間接的に言っているのです)と言うことは、人の悩みをなくすこと、恐怖感をなくすこと、不安をなくすことは仏陀、法、サンガにできます。なぜならば、三宝が貪瞋癡を乗り越えているから全ての生命より絶大な力をもっているからです。人々の貪瞋癡から生まれる悩み苦しみなどは簡単に取り消してあげることはできます。ですから、釈尊に説かれた護経にその力があります。後で、祝福経典のようなものを作られたこともあります。しかし、その場合も三宝の偉大なる不貪不瞋不癡の力に頼っているのです。

祝福は宗教の特権ですが、効き目のある祝福は佛教の特権になってしまうのです。ちなみに、祝福と暗示は似てないことも理解してください。暗示は一時的な現象です。こころをだまして無理に変えることです。また、元に戻ります。祝福では相手のこころに清らかな気持ちを伝えてあげるのです。本人にはどこまででも清らかな気持ちでいる自由があります。また、何の意味かもわからない呪文に効き目があるはずはないのです。それも暗示です。呪いは成り立ちません。相手の怒りに、嫉妬に自分が怯えたら呪いです。自己責任です。祝福だけが、成り立ちます。しかし、私たちは、個人個人で自分のこころから貪瞋癡を取り除くべきであるという本業も忘れてはならないのです。

従って、皆様に、三宝のご加護がありますように、幸福でありますようにと新年の祝福をさせていただきます。

今回のポイント

    マンネリの挨拶は無意味です。
    挨拶祝福はこころを込めて行う
    挨拶上手な人に、エゴの管理ができます。
    祝福は目上の人がするものです。
    慈しみのこころなら祝福は有効です。
    三宝にこそ、人を祝福することができるのです。

経典の言葉

Sanyutta nikāya, PTS.I.218
相応部経典 有偈篇 帝釈相応 「旗先経」

  • “Araññe rukkhamūle vā, suññāgāre va bhikkhavo;
    anussaretha sambuddhaṃ, bhayaṃ tumhāka no siyā.
    No ce Buddhaṃ sareyyātha, loka jewwhaṃ narāsabhaṃ;
    atha dhammaṃ sareyyātha, nīyānikaṃ sudesitaṃ.
    No ce dhammaṃ sareyyātha, nīyānikaṃ sudesitaṃ;
    Atha saxghaṃ sareyyātha, puññakkhettaṃ anuttaraṃ.
    Evaṃ Buddhaṃ sarantānaṃ dhammaṃ sanghañ ca bhikkhavo;
    bhayaṃ vā chambhitattaṃ vā lomahamso na hessatīti.”
  • 比丘らもし 森の奧なる樹の根方 はた空寂処にあらん時
    正等覚者を念ずべし さすれば恐れなかるらん
    もし世のあるじ導師たる ブッダを念ずることなくば
    善く説かれたる解脱の法 そのダンマをば念ずべし
    涅槃に導くかの法を もし念ずるを得ぬ時は
    世の無上なる福田の サンガをこそ念ずべし
    比丘ら三宝を念ずれば 恐怖硬直消え失せて 身の毛のよだちあらざらん
  • 訳:江原通子
  • (Sanyutta nikāya, PTS.I.218)

*この『旗先経 Dhajagga-suttam』の偈はテーラワーダ仏教の国々では護経としてよく唱えられているものです。