パティパダー巻頭法話

No.146(2007年4月)

悪人が他人を批判する

人間には判断能力がついていない Crooked mind sees only crooked.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

花は香りと一緒に生まれ、皆に喜びを与えるもの。生命はその反対をしています。香りを持って生まれるわけでもないし、周りに必ず喜びと幸福を与えるという約束があるでもない。「肉体は悪臭を放つ不浄なものだ」とブッダが説かれているので、どうしようもないことです。生まれてくるものは、せいぜい周りにかける迷惑を控えるようにと努力すれば、それだけでもすばらしいことだと言わざるを得ないのです。蛇は毒を持って生まれます。しかし人間は蛇に負けない、想像を絶する破壊力の毒を持って生まれるのです。今月は、他破壊・自破壊する人間の「毒」について話してみます。

人間もその他の生命も、周りのことを認識します。人間はその認識したものについて概念を作ったり、考えたりします。ただ考えるだけでは止まらずに、限りなく新しい概念を作り出すのです。それらは、周りの世界とほとんど関係のないものになってしまいます。周りの世界(世間)と関係のない概念を持って生きようとするから、人間だけが常に環境と対立しているのです。ただでさえ生きることは苦しいのに、人間はその苦しみを無数倍に増やしている。その上、人間は「自分たちが地球上の最も高等な生命だ」と自称している。他の生命は上位を獲得する興味が全くないので、不戦勝だと言っておきましょうか。(仏道の人は、他を軽視する乱暴な思考をやめて、生命は平等だとみなすのです。)

人間の思考の問題は、それだけに終わりません。欲・怒り・嫉妬・憎しみなどの感情で精神的に苦しみ、同じ人間を敵に回して戦うのです。他人と戦えない人々は、その怒りを自分自身に向ける。そうして妄想に陥って、精神病になったり、自殺したりする。自作自演の苦しみが耐えられる限度を超えると、神話でも作って妄想の中で楽しみを得ようとする。苦しみを紛らわす為に作った神話がやがて一人歩きをしはじめ、人々は本当のことだと信じるようになる。神話に基づいて宗教が現れてくる。妄想の中で喜びを与えるはずだった「神話」が「宗教」になり、それからまた人間のあいだで、差別や争いや搾取や、様々な苦しみを作り出す。その現状を無視して、「自分たちは知識人だ。文化人だ」とまた自称する。

今日話してみたいポイントは、「人間の評価制度はどのようなものか」ということです。世界には、普遍的な評価システム、普遍的な判断基準がないのです。にもかかわらず、一人一人が「評価のプロ」です。一人一人が、物事に対して決定的な判断をする超越した審判官なのです。ある一人の人は、「自分こそが超越した審判官だ」と思っているから、自分の判断を誰かに反対されると不機嫌になって戦ったり、批判したりする。そうやって争いが生じるのです。反対した側も、「自分こそが正しい判断をしているのだ」と思っています。だから、決して人間同士で折り合いはないのです。

人間はいかにして「超越した審判官」になったのか。その課程を学びましょう。何も知らない赤ちゃんが生まれる。徐々に周りを認識し始める。最初に周りに対して「好き」と「嫌い」という感情がおのずと生まれる。それはその子供の都合なのです。怖がる、怯える、隠れる、泣く、などの反応もしますが、それは「嫌い」という感情です。笑ったりはしゃいだりする場合は、「好き」という感情です。子供は当然大きくなりますが、「大人」にはなりません。得る情報は増えますが、それを「好きと嫌い」で区別するのです。のち、この二セットに「おもしろくない」という価値も入れますが、それは「嫌い」と隣接しているものです。

周りを認識して生まれる「(1)好き、 (2)嫌い、 (3)おもしろくない」という三つの感情に基づいて、「自分自身の世界」ができあがる。それから新しいデータを認識すると、「自分自身の世界観」を判断基準にする。これはデータの客観的な評価ではなく、自分の都合・自分の主観なのです。自分自身のエゴイスティックな態度なのです。最初に犬を見て恐怖感を抱いた子供は、それからも犬を怖がって、好きにならない。子供が何か失敗したところで、親に突然怒鳴られたとしましょう。その怒鳴り方が子供の予測したものと違った場合は、親に対して恐怖感を抱く。その恐怖感は、やがて親を憎む感情に変わるのです。人は、このようにできあがる「自分自身の世界観」を決して変えません。人が様々なトラブルを起こしてしまい、原因が自分自身の世界観だと分かった時さえも、それを変えるのは並大抵のことではないのです。

人は、大きくなっても、いろんな事を学んで知識を広げても、社会的な立場を築いても、結局は世の中を「好き、嫌い、おもしろくない」という三つの基準で判断して、自分自身の概念世界のデータ処理をします。ここでわかるのは、人の判断はその人の都合、その人の主観であるということです。客観的なデータ分析ではなく、他人には関係がないということです。(ある人が「納豆が嫌い」と言っても、他の人には関係ないのです。他の人々が納豆食を止める必要もないのです。)しかし、人間は次の問題を作ります。人の判断を気にする。人の判断に合わせようとする。または人の判断を壊して、自分の判断を植え付けようとする。合わせることも植え付けることも出来ない人は、落ち込んで一人で悩むことにする。「人の判断に根拠がない」と思う勇気は、誰にも、全くありません。

判断することの問題は、それだけなら人間には面白くないと思います。問題というものを、苦しみというものを、手に負えないほど最大化しなくてはいけないのです。それこそ、高等知識のある人間の仕業なのです。判断の問題は、どのようにして手に負えない極限的な状況に至るのでしょうか。まず結論を言います。「私は常に正しい」のです。そんな大胆なことを思う人間がいるわけない。と思われるでしょう。では、逆を考えてみましょう。我々に間違った判断ができるのでしょうか。目の前で机の上におそばが入っている皿一つと、ほつれた毛糸が入った皿一つがあるとしましょう。誰も毛糸が入っている皿を、そばの皿と間違って判断しません。笑わせる目的で、ふざけて毛糸の皿から食べるふりをするかもしれませんが、その冗談さえも、正しく判断する能力があるからこそ成り立つのです。幻覚症状の人が、そばではなく毛糸の方を食べようとしたなら、我々は、その人の判断が間違っているというかもしれない。しかし、その人は、間違って判断しているわけではないのです。私たちに毛糸で見えるものが、その人にはそばとして見えているのです。この場合、我々は、「その人の判断は間違っている」と「正しい判断」をしていて、幻覚症状の人も、「自分は『正しい判断』をしている」と思っている。要するに、人間皆、「正しい判断」をしているのです。論理的には「正しくない判断」は不可能です。

「我は思う。故に我こそが正しい」これが、私たち人間の生きるフィロソフィーなのです。物事を判断すると、自分の認識に頼らなくてはならないのです。その認識を、 (1)好き (2)嫌い (3)おもしろくない という三つの基準で処理して、判断に達するのです。自分としては、正しい判断をしているのです。もっと正確に言えば、自分には別な判断をすることは不可能なので、唯一の判断をしているのです。しかし、残念なことに、それは主観です。自分の都合であり、データの客観的な分析ではありません。他の人間とコミュニケーションを取ってみると、自分の判断に賛成するのは自分だけなのです。他は皆、別な判断をしているのです。

多数の意見に従う、皆やっているから自分もやる、はやっているものならすぐそれに乗らなくてはならない、などの考えがあります。これは、自分の判断が自分たった一人だけのものだと知ると、恐ろしい不安が出てくるからです。変人扱いされて、自分が社会からはみ出してしまう恐さがあるからです。結局はこれも、自分の主観で行う判断になってしまいます。人間は自分の主観で判断することの危険性をなくすために、また、自分の判断を正しく成立させるために、さまざまな方法を考えます。その中でましなものが一つだけあります。「世間の常識に従う」ことです。これさえも「まし」であって、正確というわけではありません。

人は判断する。判断せずに生きていられない。しかし判断は主観であって、限られた自分の主観と感情だけの世界なのです。「自分が常に正しい」という基準の上に成り立っているものなのです。しかし、「我こそ正しい」という気持ちを持っていることには気づきません。この判断機能を明確にしてみると、「人は意図的にエゴイストになりたがっているわけではなく、必然的にエゴイストになっているのだ」と理解できるのです。認識過程は我々人間を巨大な罠にはめているのです。身動きのとれない罠なので、破ることは難しいのです。

何も判断しない方がよろしい。しかし、それはできない相談です。何事も判断しなくてはいけないのです。特に行動の場合、行うべきか、やめるべきかという判断は避けられません。手を挙げること、椅子から立つことさえも、判断の結果なのです。判断して行動するということは、倫理と道徳的な問題になるのです。皆倫理に従って判断するのではなく、自分の都合という基準で判断して行動するのです。「一切の行動は自我中心的な判断から起こるものだ」という事実に、世間は気づいていないのです。エゴを戒めることを倫理だという一部の人々もいますが、世間の道徳では明確ではありません。この場合は、ブッダに説かれた道徳判断の基準を使用して主観を捨てた方が、完全に安全な生き方ができるのです。その基準は、(1)自分の幸福になるか否か (2)周りの幸福になるか否か (3)普遍的に生命の幸福になるか否か です。その三つの基準が揃って初めて、客観的な、普遍的な、なおかつ正しい道徳になるのです。

以上、説明したように、人生を変えることができれば、たとえ主観があったとしても間違いを犯せない、他人に非難されない生き方ができるのです。曖昧さと優柔不断さがなく、安心した生き方ができるのです。これが、すばらしい人間になる道です。

しかし、人間の中にも、決して救われない、育てられない、見込みがない人間もいるのです。それは、自分自身が強烈なエゴイストであり、自分の都合のみを考えて判断する人であり、客観的な事実を理解する能力のない人間であることに気づこうとしない人です。このような人は、軽々く堂々と、人のことを決定判断し続けるのです。人を差別したり、非難したりするのです。他の人間は世間の判断に耳を傾けるので、このような人のエゴ中心的な判断で悩んだり苦しんだりするのです。世間で差別感が消えないのは、このような人々の強烈な判断のせいなのです。

人の過ちは見やすいもの。「自分が正しい」という角度で見て、自分と違った行動をする人、自分と違った意見を持つ人、自分と違った身体の形を持っている人を「正しくない」「間違っている」と判断するのは、たやすいのです。自分の主観的な判断で人を差別することも、非難することも、とても簡単です。他人のことを厳しく判断する人の頭は、とても忙しいのです。他人は無数にいるし、一生、人と関係を持たなくてはならないからです。判断主義者には他人のことを判断する以外、時間の余裕も、思考の余裕も何もなくなるのです。そうやって自分の人格が向上しないよう、抜けにくい強烈な杭を打っているのです。だから、救いようがないのです。

他人が私たちに向かって「あれが悪い、これが悪い」ととやかく言っても、自分が悪いと決められるものではありません。それはその人の主観にすぎないのです。しかし、「あの人は嘘を言っている」「あの人は横領している」「あの人は怠け者だ」など、普遍的に悪いと思われる行為も示される場合がある。

指導者が、人格者が、自分の弟子たちの過ちに憐れみをもって諭されることは、その指導者の仕事なのです。これが善行為です。我々は、ブッダの批判に耳を傾けるべきです。人格者の批判を傾聴するべきです。

しかし、うるさく相手の人権まで侵害して、声を高くして人の過ちを言いふらす人は、根っこから腐っています。彼らは自己観察しない。「自分は、他人に物を言える立場にいるのか」とも調べないのです。他人の過ちをいろいろ証拠を持って示しながら言いふらすことほど、簡単なことはありません。言われる側がどんな思いをしているのか、気にもしません。相手が自殺に追い込まれるところまで、他人の欠点を世に言いふらす人さえもいるのです。

言ったもの勝ちだと思っているのです。「あの人は嘘つきだ」と言う場合は、「自分が決して嘘をつかない立派な人間だ」と間接的に言っているのです。自分が持っていない徳をあるかのごとく世間に言いふらしているのです。強い風で籾殻をまき散らすように、他人の悪を世に言いふらす人は、いかさま賭博師が負けのカードを隠すように、自分の悪を隠す。それで、自分は自分の安全を確保したと思いこんでいるのです。

他人の過ちばかり見える性格は危険です。とても危険です。その人の頭の中に、暗い思考が渦巻いているのです。頭の中は、餓鬼道そのものです。他人の徳が見えないのです。他人が、自己観察しながら自分の人格を向上するために励んでいることが見えないのです。真剣まじめに修行する人を見ても、何か過ちを見つけて、それを批判して世間に言いふらして、その人を息苦しい状態に陥れるのです。乱視の人には何を見ても湾曲して見えるように、この人の頭の中には暗い批判的な思考しか回転しないのです。

人格を向上するために、精神的な落ち着きと慈しみに溢れたこころが必要です。他人の過ちを言いふらす人にはそれがないのです。自爆道を歩むその人には、悟りの扉が閉ざされています。

今回のポイント

  • 知識は苦を強化する方へ流れる。
  • 人の判断は主観と感情です。
  • 人は「私が正しい」という生き方をしている。
  • 正覚者の言葉に基づいて正しい判断をする。
  • 他人の過ちしか見えぬ人に悟りも見えぬ。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XVIII MALA VAGGA
第18章 垢の章

  • Sudassaṃ vajjaṃ aññesaṃ, Attano pana duddasam;
    Paresaṃ hi so vajjāni, Opunāti yathā bhusaṃ;
    Attano pana chādeti, Kalim’ va kitavā satho. (Dh.252)

    Para vajjānupassissa, Niccaṃ ujjhāna saññino;
    Āsavā tassa vaddhanti, Ārā so āsavakkhayā. (Dh.253)

  • 他のあやまちは見易くて 我があやまちは知り難し
    他のあやまちは籾殻もみがらを 撒くが如くに散らせども
    我があやまちは蔽いかくす 博徒が悪賽カリを隠すごと

    他のあやまちを見て責めて 常に不満で居る人の
    その煩悩は増大し 煩悩の滅に遠く居る

  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 252,253)