No.147(2007年5月)
最勝者はお釈迦さまです
ブッダは全面的に信頼できる Buddha, the most supreme Being.
ブッダは論理的に立証しながら真理を語られました。理解も納得もしないまま、知らないものを信じることは、理性のある人間にとってよくない行為だと説かれました。もし人が信じるものを正しいか否かと確かめるならば、知らないものをペンディング(保留)状態にして信じても構わないのです。しかし、信じるものにはいつでも二つの側面があります。
- 信じたものはその通り正しい。
- 信じたものは違っていた。
要するに、本物かも知れないし、偽物かもしれないのです。だから、事実を確かめなくてはならない。このように、仏教が推薦する信仰は、どちらかといえば研究者の仮説のようなものになっています。研究者・科学者は、まず仮説を立てて、研究して、立証しようとする。研究の結果、仮説は正しかったのか、間違っていたのかが解るのです。または、「仮説は間違っていないが、補強・改良しなくてはならない」ということになるのです。
お釈迦さまは三宝を信仰することを勧めています。しかし、それは宗教が語る無条件の絶対的信仰とは違って、仮説的なのです。いくらかのデータがないと、いくらかの理論立てがないと、仮説は成り立ちません。仮説はまったく根拠のない信仰ではなく、これから正しいか否かを立証するものです。それから、仮説には立証する方法もあります。仏教の信仰もまったく同じです。いくらか仏教の真理を学んで、それについて考えて、自分の人生に当てはめてみて、納得いくならば、理解できるならば、信じるのです。しかし、これは本物の信仰ではありません。仮説的信仰なのです。それからその本人は、ブッダの語られた教えが真理か、ブッダが説く悟りの境地は真の幸福か、自分で立証してみなくてはならないのです。このやり方で、仏教徒は解脱に達するのです。というわけで、仏教の信は、ākāravatī saddhā(理性に基づく信)です。Amūlikā saddhā(根拠のない信)ではありません。
それでも、この生命のなかで起こるすべてのできごと、この時空関係のなかで起こるすべてのできごとが、何でもかんでも理解できるとは思えません。我々に理解可能な範囲を超えたできごともあるのです。まぁ、これぐらいのこと、皆よくご存知でしょう。しかし問題が起きます。我々に理解できない物事もあるという弱みにつけこんで、詐欺師たち・妄想家たちは好き勝手なことを語り、我々に「信じなさい」と迫るのです。マインドコントロールして、また、脅すのです。お釈迦さまはこの問題の解決方法も語られています。そのひとつを紹介しましょう。ある人の語ることが、真理か否かを確かめたいとします。その人はほとんど論理的で、もっともらしいことを語っている。しかし、決定的立証は信仰にゆだねられている(一神教の教えはこの特色を持っています)。どう判断すべきでしょうか?
ものごとを理解する順番は、
- 論理的に考えて納得する
- 信じる
- 信じたものを立証する
でなければなりません。信仰を立証する方法さえもない場合、彼の言っていることに根拠がないのは明確です。だから、「まず信じなさい。それから他は理解できる」という話なら、根拠のない話で、あてにならないと解ります。
仏教はこういう立場なのに、中部経典のNo.123『Acchariya_abbhuta_sutta 希有未曾有経』という経典の中身は違います。ここでは希有な、未曾有なできごとが語られています。語る仏教側が「希有なのだ。未曾有なのだ」と注意しているのです。だから、この経典を読む人々が、「そんなのあり得ない」と言っても意味がありません。理解しがたいこと、人間の認識範囲を超えていることは明確です。その場合、普通の人間は「ウソだ。作り話だ」とするのが常識です。それも覚悟のうえで、『希有未曾有経』の中から、ポイントをひとつ紹介いたします。
仏教徒はこの中身をまぎれもなく事実として「信じて」います(信じる以外どうしようもありません)。なぜ信じるのでしょうか?
- 信じがたいあり得ない話を言って「だから仏教はすごいでしょう」と人々に仏教を勧める目的はまったくない。
- 希有なことを信じなくても、否定しても、仏教を理解すること、実践すること、悟りに達することに何のさわりもない。
- 仏教の論理的な話とは色が違うと、ブッダ自身が認めている。
- お釈迦さまによると、「すごいことだなぁ」と感動すれば、びっくりすれば、充分である。
- 奇跡に惹かれて教えを信じることは、評価していない。
- 仏教では嘘をついて人を騙す目的は毛頭ない。大量に挑戦的に真理を語る仏教が、一部だけ嘘を言うのはまずい。
- 希有なことを語って人をマインドコントロールする目的も、妄信させる目的もない。
以上の理由で、仏教徒はこの経典の中身を事実として「信じる」のです。
紹介するポイントは、
“Sammukhā metaṃ, bhante, bhagavato sutaṃ, sammukhā patiggahitaṃ-‘yadā, ānanda, bodhisatto mātukucchimhā nikkhamati, atha sadevake loke samārake sabrahmake sassamanabrāhmaniyā pajāya sadevamanussāya appamāno ulāro obhāso loke pātubhavati atikkammeva devānaṃ devānubhāvaṃ.
Yāpi tā lokantarikā aghā asamvutā andhakārā andhakāratimisā yatthapime candimasūriyā evammahiddhikā evammahānubhāvā ābhāya nānubhonti tatthapi appamāzo ulāro obhāso loke pātubhavati atikkammeva devānaṃ devānubhāvaṃ.
Yepi tattha sattā upapannā tepi tenobhāsena aññamaññaṃ sañjānanti-aññepi kira, bho, santi sattā idhūpapannāti.
Ayañca dasasahassī lokadhātu sankampati sampakampati sampavedhati, appamāno ca ulāro obhāso loke pātubhavati atikkammeva devānaṃ devānubhāvan,ti.
Yampi, bhante… idampāhaṃ, bhante, bhagavato acchariyaṃ abbhutadhammaṃ dhāremī ”ti.
(MN.III,123-124p)
これは、お釈迦さまに勧められてアーナンダ尊者がお釈迦さまと比丘たちの前で語られた言葉です。
尊師、これは私が尊師に直々に聞いて覚えたものです。
『アーナンダ、菩薩が母のお腹から出るとき、神々、魔、梵天、沙門バラモン、人間をふくむこの世に、無量の広大な光が現れます。それは神々の威力さえも超えているものです。
世界の(宇宙の)はざまにー底知れないー穴があります。開いている。暗黒である。極限の闇黒である。たとえばこの太陽は、この月は、これほど威力があって光があるにもかかわらず、あの暗闇を照らすことは不可能である。神々の威力さえも超えたこの無量の広大な光は、その闇黒の境地も照らすのです。この境地に住む生命は、その光によって互いにいることをはじめて知るのです。「なんと、わたし以外に、ほかの生命もこちらにいるではないか」(と驚くのです)。この一万の星雲は、震え、震え動き、揺れ動きます。』……このひとつの出来事は、また世尊の希有にして未曾有な法(現象)であると、私は受持いたします。
それだけでは何のことかとお解かりにならないでしょう。これは、お釈迦さまが誕生した瞬間に起きた、世に二度と現れないいくつかの希有な出来事(奇跡)の中のひとつです。すごい光があらわれたのです。それがふつうの太陽光と違うことを明確に説明しています。だから、現代科学の知識ではあり得ないと言っても、意味がありません。その光は太陽の光さえ届くことが不可能なところまで届くから、ふつうの光線と違うものです。lokantarika 世界のはざま、という言葉にはコメントが必要です。loka 世界とは、ひとつの太陽系にも使えるし、ひとつの星のグループ(星雲)にも使えるのです。星雲のはざまに、光が届かない闇黒の穴があるという話です。それまた経典では複数形を使っているので、たった一個の穴ではないのです。「開いている」とは、底知れないこの穴に何が入っても二度と出られない、という意味でしょう。穴と言いつつも、それはひとつの場所なのです。暗闇は英語でblack、穴はholeです。天文学では、宇宙には強烈な質量を持つ「ブラックホール」があると言われています。天文学でも経典と同じく、ブラックホールには光は届かないと言っています。
この経典で「不思議」な出来事として語っているのは、ブラックホールの存在ではありません。お釈迦さまが誕生したとき現れた無量の広大な光がブラックホールをも照らしたこと、その光の不思議さを語っているのです。それは物理学的な不思議さではないのです。
我々現代人に、もうひとつ信じがたいことがあります。それはブラックホールにも生命がいることです。これはどう考えればよいのでしょうか。どのように考えても、理解できないことだけは確か。時間が無駄になるだけです。我々にとって生命と言えば、DNAで出来ている物体です。このような物体は、この地球上でも維持できないもろい存在です。簡単に壊れます。もし純度百%の鉄だけで出来た身体をもつ生命がいると仮定しましょう。その生命がブラックホールに行ったらどうなるのか。強烈な引力に吸い込まれるだけではありません。引力の強さによって、分解されるのです。または、徹底的に圧縮されるのです。そうなると、もう鉄ではない。だから、ブラックホールに生命がいたとしても、それは何者かと我々に推し量ることはできないのです。注釈書では、ブラックホールの生命は最初から闇黒にいるので、生きているのは自分だけだと思っていると説明します。それから、その生命には、動くことは不可能であるとも言っているのです。
お釈迦さまが誕生したときに現れたのは、物質的な光でないことは確かです。では何なのか? それを説明できるならば、希有とか未曾有とか言う意味もありません。ひとつ推測できます。生命とは物質のことではありません。こころのことです。こころの力は、物質の力よりはるかに強いのです。光があると知るためには、物質の光であるならば、眼がなければなりません。眼があっても、光を認識するのはこころです。こころがものを媒体にしないで光を認識するならば、眼があってもなくても、光を認識できるのです。お釈迦さまが誕生した瞬間に現れた無量の広大な光は、物質ではない光だったので、ブラックホールの生命にも認識できたのです。
そのとき、一万の星雲が震動した、とも説かれています。仏教は物事を丁寧に責任持って語っていることが、このセクションで解るのです。他の経典ではこの広大な宇宙の中で無数の星雲がそれぞれグループをつくって在ることを語っています。大胆なことを無責任に言おうとするなら、「全宇宙が揺れ動いた」でいいのです。しかし、そのように言っていないのです。我々の太陽系が入っている星雲を含む、一万の星雲だけが、揺れ動いたのです。百万とでも一千万とでも言えばいいのに、ちょうど一万に控えているのは、事実を語っているからではないでしょうか。とりあえず読み取れるのは、希有な話、未曾有な話をするときでさえも、慎重に気をつけていることです。無責任に語っていないことです。しかし、このようにゴチャゴチャ理屈をつけると、経典にも味わいがなくなります。経典の狙いは、お釈迦さまが誕生した瞬間、この世で二度と現れない不思議な出来事が起きたのだ、と感動してもらうことだけです。納得してもらおうという狙いはないのです。それは不可能です。
この経典には、まだいくつかの不思議な出来事が説かれてあります。お釈迦さまが信頼に値する尊い方であることを理解していただければ、結構です。人間のこころは優柔不断で常に揺れ動いている。何か疑問が起きたら、「あの人からもこの人からも聞く」のです。専門家にも聞く。哲学者にも宗教家にも聞く。しかし、誰一人として納得いける答えは出せません。聞いた人のこころはどっちにしようかと揺れ動く。ひとつに決めても、またこころが揺れ動く。一人も決定的な答えを出してくれないから、こころが揺れ動くのも当然です。ここでは、お釈迦さまという「人間」が、人類もすべての生命も超えた能力を持っているのだと、明確に語っているのです。ブッダが言われることは、可能性ではなく真理、決して間違わない、変わらない、違う結果は出さない(tathatā, anaññatathā, avitathatā, idappaccayatā)という特色があるのだと明確に説かれているのです。人間があいまいな精神、優柔不断を一旦停止して仏道に挑戦してみれば、人格完成者になるのです。希有な、未曾有な現象まで語って、自信を持って実践しなさいと戒めているところなのです。この経典の結論は、希有な現象よりも、釈尊が精神的に自由自在であることが素晴らしいということです。それだけなら、どんな人間にも達することができるのです。
私は世界の第一人者である。私は世界の最年長者である。私は世界の最勝者である。これは最後の生まれである。もはや二度と生存はない
お釈迦さまは自らが偉大なる方であることを生まれたその日で世間に宣言したのだと、この経典に記録されています。普通の人間なら、生まれたときは歩くことも語ることもできないでしょう。
というわけで、偉大なる方、お釈迦さまの誕生・成道・涅槃を祝うウェーサーカ祭にちなんで、皆様の幸福と平安を祈願いたします。
WESAK 記念 祝福 POST CARD 偈
- Aggohamasmi lokassa,
Jetthohamasmi lokassa,
Setthohamasmi lokassa.
Ayamantimā jāti natthi dāni punabbhavo. - 我はこの世の最首位者
我はこの世の最長老
我はこの世の最優者
これわが窮極の生 にして 再び生まるることはあらじぞ - 中部経典.III,123p 訳:江原通子