パティパダー巻頭法話

No.167(2009年1月)

樹を残し森を伐る方法

組合をつくるから煩悩は怖い Power and danger of unity.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「森を伐採せよ。しかし、樹をるなかれ。(Vanaṃ chindatha mā rukkham)」これはお釈迦様のお言葉です。もし誰かが入れた言葉であるならば、無視することはできますが、この言葉はれっきとした釈尊の言葉です。分かりやすく明確に語ることも、特筆すべきお釈迦様に特有の能力です。しかし、このフレーズの意味は分かりません。一般人にはとうてい理解できない言葉を語るのは、禅宗の老師の方々です。しかし、初期仏教では、「公案」は見当たらないのです。ですから、「公案だから分からない」と楽に処理することもできないのです。

樹を伐らずには、森の伐採(ばっさい)はできません。森の伐採とは、樹を伐ることです。そこで問題は、「どのように森を伐採するのか?」ということです。このなぞなぞを解くヒントが、次に語られています。「危険は森から生じる。(vanato jāyate bhayam)」ここで、なぜ森を伐採するべきかという理由を詠(う)たっているのです。森は危険ですが、樹は危険ではないのです。

現代では、森は危険ということはあまり実感のない言葉ですね。しかし、昔は違いました。森の中には様々な獣(けもの)たち、毒蛇などが棲(す)んでいる。見事に隠れている。どこから襲われるか分からない。今と違って、人家は小さく、森は相当大きかったのです。隣の村、隣の町に行きたくなったら、危険な森を通らなくてはならない。命がけです。昔の人々は、樹は一本一本なら何の危険もないが、森自体は危険極まりのない領域だと、ひしひしと感じていたでしょう。その上、昔の生活は森がなければ成り立たなかったのです。いくら危険だとしても、殺される恐れがあると知っていても、生きるために森に入らなくてはいけなかったのです。生きるために森に入るのに、その森が、その人の命を奪うのです。

これが人生です。時代とともに森が消えていきましたが、森と切っても切れない関係を持っていた昔の人々の人生と、今の人間の人生は、変わっていないのです。死ぬ恐れがあるにもかかわらず、昔は生きるために森に入りました。今も我々は、生きるためだと思ってやっていることで、かえってトラブルばかり作っているのです。自然破壊は良い例です。空気と水が汚れて、そのうえ自然が破壊されると、生きていられないのです。しかし生きるためにと言って我々がやることはすべて、空気と水を汚す、自然を破壊する。最近、金融危機という言葉がよく使われています。解決策として、際限なく消費拡大するべきだと言っているのです。消費拡大するためには、たくさんの品物を作ったりして、売り裁かなくてはいけないそうです。あらゆる方法で消費者を興奮させて、買わずにいられないように誘惑しなくてはいけないのです。二酸化炭素削減などを考えている場合ではないです。「このような生き方は環境破壊になるので考え直した方がよい」と、つい最近まで言っていたのです。しかし、何人かの無知な人々の失敗のせいで金融危機が起きたところで、考えだした解決策は「消費拡大」なのです。明らかに矛盾ではないでしょうか。この生き方を別な言葉で表現したいのです。「金がなければ生きていられないので、死んでもいいから金を儲けるのだ」と。「森を伐採せよ。しかし、樹を伐るなかれ。」という言葉で、釈尊は生きることの矛盾を表しているのではないかと思います。どうにもならない問題ですね。

次に、「森は危険」という言葉を解説しましょう。
一本一本の樹は危険ではないのに、なぜ森は危険なのでしょうか。その答えは、現代の生き方を見ても発見できます。昔も今も、我々は酸素を燃やして二酸化炭素を出して生きてきました。大気中の二酸化炭素の割合は、約0.04%で変わらなかったのです。我々は生きるために、森を切り開く。工業や車社会をつくって、際限なく化石燃料を燃やす。それで、微妙に二酸化炭素の濃度が上がったのです。数字では微妙ですが、大気で考えるとかなりの量です。温室効果をもたらすことで、環境がいま誰もが体で感じるほど変わっています。我々はいままで、いらないものは海に流したのです。海は地球の表面の70%を占めているから、私たちが流し込むゴミは、取るにも足らない微々たるものでした。しかし、いまはいかがでしょうか?

アフリカやアマゾンの盆地に、軍隊アリがいます。
そのアリ一匹に噛まれたら、取って捨てればよい。少々痛いかもしれませんが、何の危険もないのです。しかし、軍隊アリの群にひっかかったら、後はないのです。残るのは骨だけです。
オオスズメバチ一匹に刺されたら危険ですが、なんとかなります。しかし、何匹かに刺されたら、後は考えない方がよいのです。
このような例で言いたいポイントは、一個だけなら問題ないが、たくさん揃ったらたいへん大きな問題である、ということです。数は力なり、です。この世で良いものだと言っていることであっても、悪いものだと言っていることであっても、数が増えたら危険なものになるのです。雨は良いものでしょう。降りすぎは危険です。砂糖は身体に不可欠なものでしょう。摂り過ぎたら病気で早死にします。一人の若者が殺人を犯しても単純な犯罪で、問題はありません。しかし、あちこちで若者が人を殺すようになると、たいへん大きな問題です。犯罪取り締まりでは解決しません。

同類のものがグループをつくると、危険なようです。
一人では何の力もないのです。森の樹は一本一本なら何の危険もないが、樹たちが皆グループを作ったら、危険極まりのない森に変身するのです。お釈迦様がこのグループ化することの危険なはたらきを説かれたのではないかと思います。それも分かりやすく。なぜならば昔の人々は、森の危険性をことさら言う必要もない日常経験として知っていたからです。ですから当然、伐採するべきなのは、森になるのです。

それでも、この釈尊の言葉の意味はまだ理解していないと思います。森(vana)とは、仏教用語で煩悩・こころの汚れを意味します。特に愛欲、渇愛を示すために使う言葉です。もし人がたまたま何か欲しかった、たまたま何かに対して怒ってしまった、などがあるとしましょう。それほど大きな問題ではないのです。間もないうちにその気持ちは消えてしまうのです。しかし、欲・怒り・無知などの感情が、こころの汚れが、群を作ったらたいへんな危険なことになります。
私たちは、たまたま怒るわけではないのです。怒りっぱなしなのです。たまたま欲が起こるわけではないのです。欲で生きているのです。
無知は瞬間たりともこころから離れません。ですから、たまたま判断をミスったり、アホなことをしたりするのではないのです。いつものことです。
それでお釈迦様の言葉の意味は、理解できると思います。良いことであっても群を作ったら危ないのに、私たちは何をしているのかというと、悪いことずくめです。人生すべてが、こころの汚れの巨大な、際限のない森なのです。

こころの煩悩を絶って、解脱に達することがブッダの教えであることは言うまでもありません。
ここで我々は、一個一個の欲に、一個一個の怒りに、一個一個の嫉妬に、云々に対応しようとすれば、無限に終わりそうもない仕事になるのです。
様々なものを見たり聞いたり、嗅いだり味わったり感じたり、考えたりすることが、生きることです。絶えず対象が身体の六根に触れているのです。
その時、欲が現れるか、怒りが現れるか、無知が現れるか、その他の煩悩が現れるか、個人では分からないのです。ある声を聞いて怒ったとしても、「私はその声を聞くと必ず怒る」という公式は成り立ちません。その都度その都度、煩悩を絶つということは、無理です。不可能です。実践的でもないのです。しかし世は、その時その時、気をつけましょうと言うのです。それはあくまでも俗世間の考えです。その時その時、気をつけることは、観念的に良いかもしれませんが、実践的には無理な話です。
一個一個の欲や怒りなどは悪いに決まっていますが、処理できないほど大きな問題ではないのです。悪影響を与えないようにすることができるのです。しかし、煩悩が群れをつくることだけは、完全に絶ったほうがいいのです。

群れをつくるとは、「互いに何か似ているところがある、繋がることができる」ということです。磁石は磁石に繋がるし、また、鉄にも繋がるのです。アルミ、プラスチックなどには繋がりません。アルミなのに磁石が繋がったら、どう説明しますか。そのアルミは、純粋アルミではなく、鉄の分子が混ざっていたことになるのです。話を煩悩に戻しましょう。煩悩は大げさに分けると千五百十あると言われています。煩悩の中身を見ると、けっこう互い違いで、組合を作れないのです。たとえば、嫉妬があります。嫉妬があるこころに、欲は生まれません。似ているようで似ていないのです。

欲があると明るいし、嫉妬があると暗いのです。後悔という煩悩があります。後悔がある心にも、欲は同居しません。似た煩悩なら、群を作るのです。それがいかに危険かと、仏教でなくてもみな知っているのです。

たとえば、何かに対して憎しみを抱く人がいるとしましょう。その人が年月を経ても憎しみ続けるならば、他人を破壊することか、自己破壊することに進むのです。誰かに一方的に欲を抱いたら、ストーカーにでもなってしまうケースもあります。しかし人間はこのように、みな精神的に極限にいかれているわけではないのです。一つの煩悩に集中して捉われることもないのです。互い違いの煩悩を回転させているので、自爆するまでには至らないようです。俗世間では、それで安心だと思っているのです。

怒るが激しく怒らない、欲はあるが貪欲に陥らない……などなどの自己制御をうたうこともできているようです。俗世間は、「まあまあで、良い加減で、節度を知って」生きることを評価します。そうなると、解脱はいらなくなります。しかし、考えが甘いのです。煩悩があるから、どこかで群がる危険性はあるのです。

お釈迦様は、すべての煩悩はいくら互い違いに見えても、見事に群がって密林を作っていることを発見されました。
感情の発作を起こして何かトラブルが起きても、それはこの世のことで、何とか処理できます。しかし、煩悩が密林を作っているから、輪廻転生として無限に苦しんでいるのです。手に負えないのです。処理も不可能になっているのです。
ブッダ以外だれにも、この問題を解決することはできなかったのです。互い違いの煩悩が、なぜ群がるのでしょうか。この仲介役は誰がやっているのでしょうか。この煩悩の群の親分は、議長はだれですか。それは無知です。無明とも言います。無知と言えば、貪瞋痴の痴で、役割は決まっているのです。同じ無知がすべての煩悩をまとめる仲介役、また議長の役を行っている場合は、無明と言います。欲と怒りは分かりやすいですが、無知は透明で発見できないのです。放射能と似ているのです。蚊の大群が来て攻撃すると、簡単に発見できて退治もできます。しかし、放射線が漏れても、誰も気づきません。
だから、透明の煩悩がいちばん危ない。透明だからこそ、一切の煩悩と組合をつくることができるのです。
結局は無明があるから、無知だから、他の煩悩が起こるのです。無明を絶つことで、煩悩の組合が跡形もなく壊れてしまいます。これが、樹を伐らないで森を伐採する方法なのです。

また森を見てみましょう。大木で森が出来上がって、危険になっている。それで終わらないのです。下生えも群がって、背が高くなくても密度の高い森を作っているのです。パーリ語で、vanatha と言います。それも安心というわけではないのです。こころの状況で説明すると、犯罪、罪を犯すほどの貪瞋痴はvana ですが、何の罪も起さないで普通に生活をしている人々のこころも貪瞋痴なので、森を作っているのです。それが下生えです。Vanatha です。安全を確保したい人は、森と下生えを両方、伐採します。Vana がないところは、パーリ語でnibbana になるのです。これはnibbānaとの語呂合わせです。煩悩がない状態は、nibbāna です。
それほど危険を感じない小さな欲であっても、放っておくと何回も起こりますので、群を作ってしまいます。群をつくることで、煩悩は危険に発達します。ですから、仏教徒は、小さな煩悩に対しても、危険視するのです。

今回のポイント

  • お釈迦さまも時々、なぞなぞで語られる。
  • 悪業も一個なら力が弱い。
  • 罪は群れを作って際限なく危険になる。
  • 善心所は群れをつくると解脱に達せられる。
  • 群れをつくるから、微罪にも気をつけるべき。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章  道の章

  • Vanaṃ chindatha mā rukkhaṃ, Vanato jāyate bhayaṃ;
    Chetvā vanañca vanathañca, Nibbanā hotha bhikkhavo. (Dh.283)

    Yāva hi vanatho na chijjati, Anumattopi narassa nārisu;
    Patibaddhamanova tāva so, Vaccho khīrapakova mātarī ti. (Dh.284)

  • くさむら(煩悩)を伐れ 樹を切るな 下生したばえ(潜在煩悩)により 危懼きぐ生ず
    くさむら下生え 苅りつくし 比丘ら無林ニッバナー(涅槃)のものとなれ

    森の下生え苅り残す ほどの僅かの恋情も
    残せばこころ縛せらる 乳離れせし仔牛なお母なる牛を恋うごとく

  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 283,284)