パティパダー巻頭法話

No.170(2009年4月)

安心という幻想

命は不安で成り立っている We embrace the wrong way of life.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人間は何も持たずにこの世に生まれる。それから、この世にあるものはすべて自分のものにしようと努力しながら生きて、結局は何も持たずに死んでゆく。それでも、このみじめな生きざまを認めたくはないのです。否定したいのです。生れたことに、生きていることに、何としてでも大事な意味があると納得したくて、妄想に富んだ哲学や宗教をたくさん作るのです。思想家、哲学者、宗教家が何を語っても、生きることに意義を見出すことはできないのです。

何も持たずに生まれる。最初の生命を構成する精子・卵子さえも、親のものです。妊娠してから親といえるもので、生命体が精子・卵子をもらう時は、赤の他人からもらうことになるのです。ですから、死ぬまで親に対する借りがなくならないのです。親を軽視して、社会を軽視して、見栄を張って生きることは不可能な身分なのに、世界を制覇したいという気持ちは、変わらないのです。

仏教は、何も持たずに生まれるという一般的な表現はそれほど使わないのです。それなりの理由があります。

この世であろうと他の次元であろうと、新たな生命が誕生するということは、その次元で新たに「こころ」が生まれることです。こころとは、ものごとを認識するはたらきなのです。こころは瞬間瞬間、生じて滅する無常の流れなのです。ひとつのこころで、ひとつのことを認識する。そのこころが滅して、次に生まれるこころで別なことを認識する。同じこころで何でも認識するということは、あり得ないのです。これは理解するのは難しいポイントです。大胆な例えで考えてみましょう。ある悪人が怒りに狂って人々を殺しているとしましょう。その殺戮現場に、父親を探しに来た自分の子供が入るのです。

その瞬間、殺戮者はまったく違ったこころで我が子を認識するのです。その子もひとりの人間ですが、人間としては認識されないのです。殺すべき敵である人間と、愛するべき、守るべき我が子とでは、認識が変わるのです。

同じこころで何でも認識するのではなく、一個一個のこころで、一個一個の対象を認識するのです。認識機能が隙間なく、止まることなく、起き続けるのです。認識に隙間がないので、観察能力のない人々は、人に変わらない魂があると誤解するのです。こころは物質と違うはたらきなので、物質が壊れたとしても、こころも壊れて機能停止する必要はないのです。身体という物質が壊れてしまうと、認識のはたらきはその物体では起きないのです。しかし、次の瞬間で別なところで認識の流れがスタートするのです。それが死後の転生ということになるのです。

この世で人が生まれるということは、他のところで起き続けることができなかった認識が、この世で起き始めたことです。新たな場所で認識が起き始めると、いままで認識が起き続けた物体から、何も持ってこられないのです。その物体が壊れたのだから、新たな場所には影響さえもないのです。こころだけの力で転生しなくてはならないのです。認識するたびに、こころにあるエネルギーが蓄積するのです。そのエネルギーが、業というのです。

ですから、生命は業をもって生まれるのです。何も持たず、ではないのです。新たに借りた身体で、どのように認識をし続けて生きるのか、ということは、業によって制御されるのです。ですから、この世で同一な人物はいないのです。一人ひとりが、違う生命体なのです。

こころは認識しなくてはいけないのです。エネルギーなので、停止することはできないのです。停止できないこと、認識しなくてはいけないこと、こころは常に不安定であることです。不完全であり、依存していることであります。こころは依存するために、物体を必要とするのです。それが身体、ということです。石、鉄など固い物質では、認識機能が起きないのです。認識できるような、もろい物質でなければいけないのです。例えば、光が石に当たる。何の変化も起きません。光が我々の目に当たる。瞬時にたいへんな変化が起こるのです。こころがその変化を認識する。ですからこころには、もろくて壊れやすい、変化しやすい物体が必要なのです。身体がプラチナやアルミなどの変化が遅い物質でできているならば、何百年でも病気一つにも罹らないで生きられるでしょうが、それはあり得ないことです。瞬時に変化しない物質は、身体としては機能しないのです。

ここで、生きるという状況をまとめてみましょう。こころが不安定でもろいのです。生滅し続けなくてはならないのです。こころが物質に依存しなくてはいけないのです。その物質も、もろくて壊れやすいものでなければ、こころに依存することができる身体にはならないのです。まとめてみると、もろいこころはもろい身体に依存して生き続けているのです。次から次へと、絶えず認識しなくてはいけないという条件は、「死にたくない」という感情として、我々はよく経験しているのです。みな「死にたくない、死ぬのは怖い」と言ってはいるが、「その理由は?」と訊けば、何の答えもないのです。

認識し続けなくてはいけないという強迫感は、こころの問題です。何かを認識すると、次に別な何かを認識しなくてはいけないというポテンシャルが溜まるのです。

人が喜んでご馳走を食べているとしましょう。その行為をしている間は、「食べてから○○をしなくては」というポテンシャルが溜まっていくのです。一つの行為は、必ず次の行為につながるのです。次の行為のゆくえを定めるのです。お風呂から上がった、という行為が終わったら、「テレビを観よう、ご飯を食べよう、本を読もう、布団に入ろう」などの行為の一つになるが、庭の雑草を取ろう、狩りに出かけよう、などの行為にはならないのです。このように、一つの行為は次の行為のゆくえを決めてしまうことも、業として理解するべきです。こころに溜まるポテンシャルが、業なのです。

何も持たずに(業以外)、この世で誕生する生命は、それから死ぬまで、なぜ必死になって世界を制覇しようとするのでしょうか。何でもかんでも自分の持ち物にしようとするのでしょうか。なぜ借家で満足しないで、持ち家を求めるのでしょうか。答えは簡単です。借りた身体が、もろいのです。壊れないように、修復しなくてはいけないのです。一個の細胞に宿るこころが、死ぬまでその身体を絶えず維持管理しなくてはならないのです。
一個の細胞が、もろくて壊れやすく、寿命が短いのです。それが、こころの作業場として欠かせない条件なのです。しかしこころが、認識し続けなくてはいけないのです。

ですから、どんな目的で生れようとも、それを気にする余裕がなく、身体の維持管理にかけなくてはいけないのです。そもそも、目的があって生まれたわけではないのです。認識し続けなくてはいけない、という強迫感があったから、生まれたのです。ここで生まれたい、という計画があって生まれるのではなく、こころのポテンシャルによって何処かに生れてしまうだけです。ですから、新たに生まれた場所の身体を維持管理することが、「生きる」ことになってしまうのです。

というわけで、生まれた生命体ははじめから、栄養をとったりして身体の維持管理に必死になるのです。決して強くはならないが、より強い、耐久性のある身体にしようと努力をする。強い身体になったつもり。耐久性のある身体になったつもり。しかし、なるわけではない。強い、変わらない身体では、生きることは不可能です。死ぬまでこの矛盾に気づかず、生きる戦いを続ける。死んでも、生きる戦いを続ける。

生れた赤ちゃんが徐々に成長すると、本人も周りも喜ぶ。勉強に励んだり、技術を身につけたりして喜ぶ。それで安心・安定できるものだと、勘違いして喜ぶ。定職につけば安心だと、結婚すれば安心だと、子供が生まれたら家庭は安心だと、勘違いして喜ぶ。預金通帳の桁が増えれば喜ぶ。紙一、二枚に「土地の権利書」と名付けて、そちらに自分の名前が入ると、土地が自分のものになった、これで安心だと喜ぶ。人は死ぬまで「安定」を求める。

政治家が安定した国を築くためにはたらく。経済活動をする人々は、安定した豊かな社会を築くために訳も分からないことをやっている。軍隊は国の平和と安定のために、限りなく軍事力を強化してゆく。誰ひとりにも、余裕がないのです。落ち着きがないのです。ホッとすることができないのです。忙しいのです。必死なのです。休めないのです。一生、「安定」のために働き続けるのです。

生命の願いは、たったひとつでしょ。安心・安定を築きたい、それだけです。異論はありません。不安になりたい、不安定になりたい、とだれが思うのでしょうか。しかし、そこまで必死で切望しているのに、そのために一貫して努力しているのに、なぜ安心・安定を得られないのでしょうか。(そんな余計なこと考えるヒマがないのです。)

のどが渇いた人が、塩水を飲む。水分がお腹に入るが、身体にある水分も無くなるはめになる。さらにのどが渇く。また塩水を飲む。これでは問題を解決できますか。

身体に傷がある。細菌が入って炎症を起こす。かゆくなる。バリバリと掻く。気持ちいいのです。しかし、傷が大きくなる。炎症も拡がる。もっとかゆみが強くなる。さらに強く掻く。また気持いいのです。掻く時は気持ちいいからと言って、傷は掻くことで治せるのでしょうか。

この二つの例えは、人間の生きざまを説明するために仏典でよく使用されるのです。世間は仏教に対して、悲観的な教えだ、生きる喜びを否定するのだ、やりたくもないことを推薦するのだ、非論理的だ、などなどと言って批判をするが、仏教は世間に対して、のどが渇いているのに塩水ばかり飲む愚か者だと言うのです。

家族や子供に対して、強い愛着と喜びを感じて、人は必死で生きている。俗世間の快楽に陥って、愛着と喜びを感じて必死で生きている。家族や子供のために、財産のために、快楽のために、闇雲にはたらいているのです。財産の管理に追われて、夜も寝るひまが無くなるのです。商売が繁盛すると同時に、ひまも余裕もなくなるのです。

安定したつもりでいるが、闇雲にはたらくことを止めないのです。安定に達したならば落ち着けばよいのに、その反対でさらに頑張るのです。安定したと思って、誰をだましているのでしょうか。自分自身をだましているのです。「もう少々頑張れば安定するのだ」と自分に暗示をかけているのです。自分で自分をマインドコントロールしているのです。世界を支配して、莫大な収入を得ていたGM、フォード、クライスラーといった大会社の状態はいかがでしょうか。安定した世界一流の巨大企業だと、ウソばかりを言って本人たちが自分をだまし、我々をだまし続けただけでしょう。だましの結果として、さらに世界を不安定に陥れたのです。「百年に一回ほど起こる経済不振」と言って、いまは抜群な知識と能力があるから心配は何もないと宣伝はしているが、安心しなさいと言えば言うほど、不安に陥るのです。すべてウソなのです。人生論もウソです。考えることもウソです。健康であれば安心だ、とはウソです。財産があれば、幸せな家庭があれば安心だ、幸福だ、というのはウソです。

いまだかつて、一時的にでも安心に達したためしがないのです。それでも、安心・安定論に固くしがみつくのです。あきれるほど無知です。「無知」は仏教のキーワードです。

子孫、財産、快楽におぼれて安心の気分でいる人を、熟睡している村人が洪水で流されるように、死はあっけなくさらってゆくのだと、お釈迦様が説かれるのです。

人が計画を立てて引っ越しをする時は、よりよいところに引っ越しするのです。楽しい気分で引っ越しして、引っ越しの後も楽しくなるのです。
いま住んでいるところの家賃を払える能力がなくなって、引っ越しするはめになって引っ越すと、楽しくないのです。新しい場所は、前ほどよくないのです。引っ越しも、引っ越しの後も、楽しくないのです。
三番目の人は、気持ちよく満足して贅沢に住んでいるが、突然、家が火事になって燃え上がる。着のみ着のままで逃げて命拾いしなくてはいけないことになるのです。これも事実上、引っ越しですが、最低最悪の引っ越しです。引っ越しの計画がまったくもなかったのです。引っ越しするつもりはなかったのです。

我々人間は、おめでたいことにこの三番目のグループに入るのです。最悪最低なのです。

少々説明しないと、この意味は理解できません。みな財産を築くために努力するが、必ず死ぬのにその準備はしません。朝から晩まで快楽におぼれて必死で生きるが、死ぬ準備はしません。総理になろうが、大統領になろうが、大富豪になろうが、王であろうが、人は死にます。
見事な計画を立てて生きようとはするが、死の準備はしません。だから、みな三番目に入る引っ越しなのです。
おめでたい気分で生きることほど、おめでたくないことはないのです。

無知という旗を掲げて生きるのはよくないのです。
こころも身体も、もろくて壊れやすくて、不安・不安定だからこそ、命・生きるという現象が成り立つのです。物質に、肉体の維持管理にかかずっても、不安は安心に、不安定は安定に変わらないのです。結果は、不安と不安定がさらに膨張して攻撃することです。我々は、この矛盾に気づくべきです。やるべきことは、こころにある「認識し続けなくては」という強迫観念を消すように努力することです。分かりやすく言えば、死にたくはない、死ぬのは怖い、という感情を理解して、それは根拠のないものだと発見することです。
要するに、生きることに対する執着を捨てる努力こそが、生きている生命の本職・本業なのです。他に何をやっても、火に油を注ぐだけです。

今回のポイント

  • 何も持たず生命は生まれる
  • すべてを持とうとする努力は破綻で終わる
  • 生きるとは矛盾の行為です
  • こころの不安と無知をなくすことで平安に至る

経典の言葉

Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章  道の章

  • Taṃ puttapasusammattaṃ, Byāsattamanasaṃ naraṃ;
    Suttaṃ gāmaṃ mahoghova, Maccu ādāya gacchati.
  • 子らや家畜を我がものと 人はじゃくせど死の王は
    掴み連れ行く洪水おおみずが 眠れる村を流すごと
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 287)