No.172(2009年6月)
安全第一
保障がないと人生は心配 Nothing is secure in life.
「安全第一」
このスローガンを初めて目にした時、意味がよく分からなかったのです。”Safety is numberone” とそのまま英語の単語を入れても、何の意味も持たない言葉です。次に、はたと気づきました。これは、”Safety first” という意味ではないのかと。その場合は、「何よりも先に安全を考えなさい」という意味になります。そこで、我々が最優先にすべき安全について、仏教の立場から考えてみることにしました。
まず世間が考える「安全第一」について説明しましょう。工事現場では、仕事する人々が怪我をしないように気をつけることが、安全第一なのです。それでも仕事中、それなりの怪我をするのは、いくら気をつけても避けられないことです。人が怪我した程度では、それほどのニュースにはなりません。しかし死傷者が出たら、たいへんな事故になります。簡単には済まないのです。もしかすると、その業者に業務停止命令が下される可能性もある。いくら厳しい法律を立てて工場・工事現場などで人の身体の安全を確保しようとしても、事故が起こるのです。「事故ゼロ」というスローガンもありますが、一度たりとも実現できたことはないと思います。
人々は、ふざけてスローガンだけ掲げて遊んでいるわけではありません。安全第一、事故ゼロを実現しようと、あらゆる手を打っています。身を守るための道具は、たくさん開発しています。人が日常使う道具についても、安全ということを先に考えるのです。子供の使う傘がありますね。傘の手元(柄)は何かにかけて大人がぶら下がっても壊れないほど頑丈です。露先(傘の骨の先端)はけっこう大きい玉になっている。
子供用の傘には大き過ぎて、プロポーションも悪いと思います。しかし、聞いた話によると、子供が遊んでいる時、耳・鼻などの穴の中に入ったら危険なので、たとえふざけても耳の穴の中に入らないように大きく作っているそうです。この例で、人々がどれほど安全ということを考えているのかとお分かりでしょう。宇宙船から子供のおもちゃまで、人々が作る品物は何であろうとも、安全対策は厳しいものです。しかし、「事故ゼロ」には達しないのです。
それにしても、面白いことがあります。家族は家に住んでいるものです。家とは、赤ちゃんからお爺さんお婆さんまで、住んでいるところです。そのふつうの家族の家には、「安全第一」という看板がどこにもないのです。家族の間なら、安全は管轄外でしょうか?
そうではないのです。お母さんたちは、皆の安全に対しては、ヒステリーになるほど真剣なのです。工事現場を囲んでいるフェンスは、安全第一という看板だらけですが、事故が起こるのです。家族の中は、看板はないが意外と安全なのです。お母さんたちにとって、「安全」は看板や掛け軸に書いてかけておくものではないのです。必死で注意をはらわなければならない仕事なのです。お母さんたちは、子供たちが家から離れてどこにいても、真剣というリモートコントロールで、しっかり安全を管理する能力を持っているのです。専門的な業者さんよりは、家のお母さんは安全対策のプロなので、お母さんたちから安全にかかわるアドヴァイスを訊いた方がよいのではないかと言いたいところです。しかし、それもあてになりません。母親がいくら守ろうとしても、子供に関わる事故や犯罪は起こるのです。最終的に言いたいのは、どのように工夫しても、「安全第一」は完全に実行できない、ということです。
また様々な分野で、限りのない安全対策があるのです。よく聞かれるのは、食の安全です。誰でも、身体に悪いもの、健康を害するものを食べたくはないのです。食の安全対策は、かなり進んでいる分野です。それでも人の手に負えないところで、問題が起こるのです。十五年ほど前から発生した狂牛病の問題で、世界中が混乱しました。その騒ぎが収まってくると、鳥インフルエンザが現れたのです。世界的に食の安全が揺らいだ事件です。それらの問題は、まだ完全に消えてはいないが、いくらかは管理されています。現在は、豚インフルエンザで困ったり脅えたりしているところです。病原性大腸菌O-157 に汚染されたカイワレ大根などの問題もありました。これらの問題は、人為的に起きたものではないのです。しかし社会は、ウナギの産地は国産にするのか中国産にするのか、ということにも騒ぎます。日本のスーパーにある牛肉、鶏肉などの場合も時々、生産地の表示をめぐって大きな問題が起きました。食品会社が倒産に追い込まれるまで騒ぎましたが、それによって健康に問題が起きたわけではないのです。表示にさえも真剣なこの世界であるにも関わらず、食の安全、ということは完全に実現できないのです。
健康に対しても、病気にかからないことに対しても、安全対策はたくさんあります。火災、地震、津波、洪水のような自然災害に対しても、手は打ってあるのです。国の経済状態を安全に保つために、一流の専門家たちが必死で頭を悩ませています。政治が安定しないと国はどうにもならないと、政治家が悩んでいるのです。国の平和を保つことも、重大な仕事です。いまのリストで出した一つの項目も、無視できるものではありません。たとえば国の経済状況はどうなってもいいのではないかとか、病気が広まっても気にする必要はないとか、とても言えたものではないのです。どんな項目でも、優先順位は第一です。一位は決められないのです。ですから、「安全第一」以外、言いようがないのです。とはいっても、安全第一と言えば、怪我しない程度、死傷者が出ない程度ばかり考えているのです。
何から何まで、危険なのです。人が朝から晩まで行っている如何なる行為にしても、真剣に、安全第一を考えなくてはならないのです。この世で生まれてから死ぬまで、安全第一を考えなくてはいけない。家族を守る時のお母さんたちの真剣さが、皆に24時間、必要なのです。生きることは、それほど危険にさらされていることなのです。しかし、どれほど頑張っても、成功には達しない。老いて死んでゆくことは、避けられない。結論を言えば、すべての安全対策は大失敗で終わる、ということです。
命に欠かせない安全対策も完成していないのに、人々はさらに余計な安全対策も考えます。たくさん金が儲かりたいと思って株などを買って、せっかく貯めた財産を失ってしまうのです。この世には、生命保険というものがありますね。保険料は安くありません。
しかし、生命保険とは、何かの冗談ではないかと思います。生命保険で儲かりたければ、早く死ななくてはいけないのです。生命保険の契約を結んだら、ガン保険、入院給付金、手術の手当てなどでは止まらず、百万程度の葬式保険にも入っているのです。安全には、わずかな穴があってもよくないのです。旅行に出るならば、旅行保険があります。旅行から帰ってきて、家が泥棒に荒らされて大事なものを持っていかれていたら大変でしょう。しかし安心できます。いくらでもあるホームセキュリティ会社と契約すれば、侵入者が現れてから25分以内で駆けつけてくれるのです。(泥棒が自分の仕事を15分で完了するように職業訓練を受けたらどうするのか、ということはまだ考えていないようです。)買い物する時でも、不安があったら困ります。
ですから、カードで買い物する場合、品物に何かあったらカード会社が全額保証してくれるのです。品物を売って商売する会社も、カード会社に負けたら商売になりません。通販で買った品物が気に入らなかったら、二週間以内なら返品できるので安心です。電気製品などは、一年保証付きで売っているのです。
いったい保障が効かないものは、この世で何かあるのでしょうか。また、安全対策があるのです。車が盗まれたら困るので、車がつねにどこにあるのかとチェックして、運転しているのは車の持ち主か否かとチェックする機械まで付けてくれるセキュリティ会社もあるのです。子供が無邪気に遊んでいても、誘拐されないように、子供がいる位置は母親の携帯ですぐわかるのです。しかし、母親が携帯でチェックしている間に、誰かが子供をさらって行ったら、「携帯に入らなくなった、誘拐されたかもしれません」と悩むしかないのです。親切に丁寧に、我々の安全をはかってくれるのは、民間会社だけではないのです。国民を犯罪者から守ってくれる警察組織があります。人が殺されるまでは何も手を出せないが、殺されたならば警察は必ずとも言えるほど確実に殺人犯を捕まえるのです。
ですから、殺されても安心です。国を守ってくれる自衛隊もいます。自衛隊は日本の安全を確保しているから、いまは外国の安全にまで手を伸ばしています。ですから、安心できることでしょう。
ここで、何か矛盾があるのではないかと気づかれていることでしょう。「生命保険に手術保障、入院保障も入っていたので、たいへん助かりました」という人がいるとしましょう。大手術をして長い入院生活にもなったのに、治療費を保険でまかなえたことは本当に喜ばしいのです。しかしその喜びは、ひどい事故に遭ったから、ガンなど恐ろしい病気に陥ったから、感じたものです。「死んだら金をくれるぞ」という話には、乗るものではないのです。はじめから、死にたくはないのです。ピンからキリまで、無数の保障がある世界に生きている。それは、生きることは限りのない危険でいっぱい、ということの保障にすぎないのです。安全は、「安全ではない」と言うのです。保障は、「保障なんかはありません」と言っているのです。この世で安全も保障も成り立たないのです。保障の数が増えることは、生きる危険性が増えたことだとも解釈できます。または、保証はあり得ると勘違いしている人の無知度が右肩上がりだ、とも言えるのです。
人はこれでは止まりません。昔からも、「財産があったら安全だ、家や土地があったら安全だ、家族や子供がいたら安全だ、親戚・知人などがいれば安全だ」と思って、がんばってきたのです。これらの何が揃っていても、人は老いていくのです。病気にもなるのです。必ず死ぬのです。末期の人が、アメリカ大統領の地人であっても、ローマ教皇の側近であっても、何の意味もないのです。地上にいる神の代表者と尊敬されているローマ教皇であっても、パーキンソン病に罹かかっていたのです。
いったいなぜ、人間は一生、他人に頼ったり財産に頼ったりする以外、何もしないのでしょうか?
何があっても、何の頼りにもならないのだと、なぜ理解しないのでしょうか? 何も持たず、あっけなく惨めに死ぬはめになるのだと、なぜ気づかないのでしょうか? いくら立派な子供であっても、死に至る父を助けることはできません。世界を支配する父親であっても、死にかけている我が子を助けることはできません。老病死で冒されている生命にとっては、何も助けにならないのです。それでも人は、他人や物に依存して生きること以外、生き方があるのだと気づかないのです。一切の苦しみを乗り越えられる道があるのだと、気づかないのです。それは、真理を語る人(ブッダ)に学ばないからです。生きる苦しみを乗り越える方法、死を乗り越える方法は、たった一つ。涅槃を体験することです。
今回のポイント
- 生きるとは、はじめから危険な行為です。
- 世界には無数の保障があります。
- 世界の保障は「保障できない」という意味です。
- 死に至る人に何の保障もありません。
- 解脱こそ完全安全な境地です。
経典の言葉
Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章 道の章
- Na santi puttā tānāya, Na pitā nāpi bandhavā;
Antakenādhipannassa, Natthi ñātīsu tānatā. - Etamatthavasaṃ ñatvā, Pandito sīlasamvuto;
Nibbānagamanaṃ maggaṃ, Khippameva visodhaye.
- 子らは救護に役立たず 親、親戚も亦同じ
死神その手で掴む時 親族たりとも救い得ず
この巖粛な義理を知り よく自制せる賢パンディタ人は
持戒つつしみ速やかに 涅ニッバーナ槃の道浄めかし - 訳:江原通子
- (Dhammapada 288,289)